朱雀の、啼く

文学と、政治と。

新しい千年のために

 リービ英雄 「千々にくだけて」 (2005、講談社) 読了。

 

 静かな作品であると思った。

 主題となっているのは9.11である。七年経つ今も、わたしはそれを指して「同時多発テロ」と、口にするのを躊躇わざるをえない。

出来事を名づける際に感じられるある種の後ろめたさをこれ以上ないと思われるほどまざまざと感じさせられるからである。

 だが、そんな躊躇は出来事の重みに比して、どうでもよい瑣末なことだとしなくてはならないだろう。

 実行犯のグループと、その組織を指して、テロリストと呼ぶ習慣が瀰漫した。

 この「テロリスト」というレッテルは、その後様々な場面で用いられることになった。イラクで、パレスチナで、北朝鮮で、それは社会悪の代名詞として用いられていった。

 だが、それも瑣末なことだとすべきなのだろう。

 テロについては「自爆攻撃」と、アルカイダらの組織については「イスラム復興主義勢力」という表現を敢えて用いたい。いまのところ、それが最も適当であるように思える。「テロ」と「テロリスト」についての歴史的概念から、出来事は遥かに逸脱してしまっているばかりでなく、それは特定の政治的意志への帰属を意味するから。だが、かの攻撃がテロリズムの性格を色濃く持っていることは否定しえない。

 可能な限り遠く離れた所から、もう一度、炎上し崩落するビル群を「眺め」る必要を感じています。

わたしは、本書を紹介したいとは別に思わない。

 これに、何らかの回答を求めるものは期待を裏切られるだろう。この作品は、実存するイスラム復興主義勢力との対照において辛うじて価値を帯びることが可能なだけの、究めて無力な姿をしている。

それはちょうど、日本にいてマスメデイアをつうじてニュースにふれるだけのわたしのように無力なのである。

 報復戦争の連鎖にたいして。そのなかで流されていった幾多の血に対して。未来の光はその血を照らしている。

厭戦的な雰囲気が、アメリカ社会に立ちこみ始めてしばらく経つのではあるけれども、ではイスラム復興主義勢力アメリカ合衆国及び欧米資本主義諸国への攻撃は、これで収束するとでもいうのだろうか。

それは、楽観論にすぎる。

限りない「無辜の」(この概念自体既に失効しているとはいえ)流血を強いておきながら、その遺恨が新たなる攻撃の頻発へ向かわないという予測がどうして立つだろう。

アフガニスタン及びイラクで、今後、国がいかように営まれてゆくのか、そのことに大いに関わる部分ではあるが、その点に何ら希望を見いだしえはしない。所謂テロは今後も頻発するだろう。

それは、「グローバリズム」の、いわば副産物だから。グローバリズムそのものが根底的に批判され、乗り越えられない限り、状況は本質的には変わらないだろうと思います。






さて、本書をかたる上での、キー・ワードの羅列。

知識人の終焉

共感と小説

マルチカルチュラルな個人の無力(エトランジェの失効)

自閉と苛立ち

セックスと自慰の対比

作者の「アメリカ人」性

現実と劇との交錯、価値転換



誰しもが、9.11に纏わる表現は、ビン・ラディンを凌駕しなくては無意味だと感じているが、本書は寧ろ対抗的な姿勢を取るのではなくて、いわば事件に寄り添って語られている印象が強い。

徹底して受動的な位置におかれた体験を、徹底して受け身で書いている。

その姿勢が、かろうじて作品に価値を与えているといえるのではないのでしょうか。