中上健次

 中上健次については、是非、書いておきたい。

 それは、たんに小説の読書、という範疇には収めることができない圧倒的な体験であって、おそらくわたしの世界観の核を形成したのは、そのような体験であったから。

 中上を読むうちに、現代詩への感性も磨かれていったように思う。

 学生の頃のわたしは、デリダドゥルーズといった思想家に関心を持っていたけれども、そういう熱は現在は冷めていて、むしろ中上健次の存在の方がわたしには大きい。

いうまでもなく、中上健次は、被差別部落をえがいた作家である。それを敢えて記すのは、死によってかれの発言が途絶えて以後、どのようにしてか、かれを体制の内部に回収してしまおう、と、そのために、社会的政治的背景は削ぎ落としてしまおうという意志が働いているように感ずるから、です。

 イデオロギーについて閑却された小林多喜二が、たんなる勧善懲悪の作家に過ぎなくなってしまうように、中上作品を「萌え」や劇画の面において見よう、などというのは反動も甚だしい。それは作品を骨抜きにするに等しい行いである。

 差別の問題は、関係者がその事実を忘却すれば乗り越えられるというような、皮相なものではなかった。中上が作品において描き、再三強調してきたのは、差別の根深さ、その社会的精神的構造性であり、天皇制との通底である。それは、絶対に遺伝の問題ではないにもかかわらず、社会的遺伝とでも呼ぶべき根深さを持っているのである。

 確かに現在では、中上の生前と較べて、問題性は変容している。

 だが、皇居は相変わらずそこにあり、マスメディアレベルでの言説の変容などは意に介すことなく、年々の宮中行事は厳粛に執り行なわれ、われわれが根底的には、同一の神話的構造の中を生きていることに変わりはないのです。