ユートピア的想像力と文芸

 詩にせよ、小説にせよ、ユートピアを求める人の心と共鳴するものです。

 だが、ユートピア的想像力が力を失って久しい。その背景を成しているのが、ソヴィエトと第三世界の諸社会主義の経験にあることは明白である。

 ところで、肝心なのは、ユートピアもまた実践性、現実性との緊張があってはじめて意義を有するということです。だから、むしろそれをコミューンなりソヴィエトなりとわたしは呼びたい。

 人間の想像力など知れたものだ。今後、いかなる理想社会論が現れようとも、それはコミューン、ソヴィエトとは異なる呼ばれ方はしないだろう。アソシエーションの概念も、それがコミューンと呼ばれるようにならないとしたら、現実的な力を持つことはない筈である。

 はたして、ソ連という経験、また、社会主義を掲げつつ繰り返された虐殺や侵略のさまざまな形態、そして正義、人権といった概念に酔いながら繰り返される資本主義諸国の蛮行、こういうものを凌駕するようなユートピア的想像力の展開は、今後の文芸に期待できるだろうか。

 残念ながら現在は、現実が想像力を超えてしまっているようです。