終焉の言説 (柄谷行人)

 柄谷行人が、近代文学の終焉ということを云っている。

 かれの言っていることは、ほぼ初期から一貫していて、近代文学の終焉について語るようになることも、初めから予定していたのではないか。そう疑いたくなる程、驚きも違和感もない現在のかれの近代文学をめぐる基本認識である。

 勿論、実際は随分以前に終わっていたのである。ただ、それを口にすることが憚られていたに過ぎない。

 「終焉」という告知それじたいが空転し、何物も終わらせることができないような状況について自覚的に柄谷は振舞ってみせている。したがって、そこにはなんら悲壮感はない。「終焉」についての、「文学的な」感慨などはまるで持たなくてよいのだし、持ちようがない。そのような状況下において、疑似「抑圧的」存在たらんとしているのが柄谷である。

 いつか、柄谷は他者の言説を評して、「アジビラ」と表現していたが、柄谷自身が、アジビラ書きであることを標榜していたはずである。いささか難解で、上質と錯覚されかねないようなアジビラではあるが。だが、柄谷以降のフォロワーたちに、その意志はほとんど見られない。それが、かれらの作品をつまらないものにしている。