朱雀の、啼く

文学と、政治と。

散歩

 10時頃から散歩をする。

 偶に外をで歩くのもいい。空気は冷たい。今日明日あたりからは雪になるという。

 町外れを流れる、遊楽部川の川縁の遊歩道を歩いた。

 いまでは舗装されているが、わたしがこの町で暮らしていた幼年時には、こんな遊歩道はなかったはずだ。

 青空が冴えわたってみえた。

 

 散歩しながら、カントのことをあれこれ考える。

 わたしの現在の関心の中心は、かれの倫理学にある。カントにあっては、宗教的なものとの葛藤が問題意識の基盤にあったはずだと思う。宗教、信仰、これに依拠するような旧来の形而上学から袂を別って、いかに倫理学を人間的、俗世的、此岸的に基礎づけるか、という方向性である。

 現在でも、そのような宗教、宗教的伝統との葛藤は一般に不可避的に経験される所であると思う。したがって、そこに現在カントを読むことの意義のひとつがあることは疑うべくもない。社会的には、宗教が齎す葛藤は何ら解消されていない。たんなる趣味の問題として宗教を退けることはもとより難しい。たんに自分は信仰を持たないから宗教を免れている、などというのは錯覚に過ぎない。宗教的なものの根源は社会においても人間個体においても、その根底に関わっているのであって、もし宗教との決別ということが問題になるとしたら、それは社会的にも個体的にもその根底において宗教的なものを自覚し、いかにそれを脱却するか、そういう過程が求められざるを得ないはずである。

 だが、わたしはそういう問題意識は意義を持たないと思っている。即ち宗教的なものは決別さるべき悪しきものなどではなくて、そのようなものとの調和において人間性を探るべきだというような方向性である。

 もとよりカントにおいても、宗教批判のトーンは僅かなものであって、かれの形而上学批判は、理性にとって可能な事柄の範囲を画定する意図を有したものに過ぎないといった趣旨が書かれている。それは、理性の限界外の事柄については、宗教的解決に委ねるほかないことを示唆しているようにも読める。

 宗教的心性とされるものを、宗教に回収させるのではなくて、別様にそれを深化発展させる道をこそ捜しているのだとも言えるかも知れない。


 カントといえばすぐに連想せざるをえないのは、埴谷雄高という文豪の存在である。

 埴谷は獄中でカントを読んだものと聞いている。かれにおいて、マルクスの思想とカントとは如何に結びつき、また結びつかなかったものか関心がある。近年では柄谷行人がカントとマルクスという副題で一書を物している。

 マルクスは積極的には倫理について言及していない。そこから幾多の問題が実践的に生じてきたであろうことは簡単に想像できる。