朱雀の、啼く

文学と、政治と。

吉本隆明 語る NHK教育 ETV特集

 

 わたしが吉本隆明の作品に触れたのは、1996年の前後だったと思います。

 「固有時との対話」「転位のための十篇」等に収められた詩篇を読んで、震撼をさせられました。現在でも、折にふれて読み返す詩人です。論客としてよりも、詩人としての吉本の印象が遥かにつよい。

 こういう、自分が読んできた近代文学史上の人物が元気に聴衆の前に姿を見せてくれるということは、やはり素直に嬉しいものです。思い入れというものがあり、したしみがある。彼が潜り抜けてきた時代との格闘の軌跡を思うと、よく生きていてくれたものだと、その事実の重さに感慨をいだく。その精神の強靭さ。

 子供のようにきらきらとした瞳の輝きがとても印象深かった。(いつかどこかで、蓮実重彦がそれを揶揄していたっけ)

 訥々と、途切れがちに語ること。その語りじたいが、あるいは切実なものをわたしたちに提示しているといえるかも知れない。

わたしは、老い、ということは、この講演の模様をみても、自宅で背を曲げて挨拶し、身体を引き摺って移動する姿をみても、不思議と、感じませんでした。そもそも、若いころから老人のような風貌をしていたのが吉本隆明だと思います。

 今にして新鮮に感じられるのは、気鋭の論客としてのかれよりも、若い頃から日本の古典文学に没入して行ったかれの一面です。詩誌「荒地」における先行の詩人たちの教養の範囲とはことなっているだろうと思います。講演でかれは、世界を掴む、ということを再三云っている。荒地の詩人たちには、英米やフランスの教養があった。にも拘わらず、かれは日本へ沈潜しようとしました。鮎川、田村といった人々の仕方では、つまり、直接に外来の知識に向かう道では、世界は掴めないという認識が、若い頃からあったのではないでしょうか。あるいは、そのようにして掴まれた世界などは、皮相で、かんたんに吹き飛ぶものであると。先行詩人たちとは異なった、吉本なりの敗戦体験の深さをそこに見る思いがします。

現在は遥かに容易に「世界」にふれられるかのような錯覚が瀰漫しているとはいえないでしょうか。メディアも交通も発達をしているのは確かでしょうが、そのような仕方ではなぞることさえ可能でないような世界について、かれが示唆しているようにわたしには思われてなりません。

 また、かれは自立をいい、のちには転向を口にしますが、それはある時代的な役割を自ら終えたことを意味しはしても、それ以前の仕事の意義がそれによって減じるということはありえない。我々、あとに来たものとしては、その最良の収穫にこそ学び、それを引き継いでゆくという気概が求められているのではないでしょうか。それは吉本のユートピアであり、「大衆の原像」です。詩、批評、政治的言説、デモンストレーションへの参加に到ってかれの営みを貫通する原理をなしています。