鮎川信夫の詩とともに

 この現在において、鮎川信夫の詩を読むということは、どういうことなのだろうかと、自問をする。

 「戦後」という時代は終焉したものと云われて、もう長い年月が経っているが、それではこの、戦後詩の典型をなした詩群の価値は失われていると云えるでしょうか。

 どうも、そうではない、と、感じます。もっと適切な時代概念を提示できればよいのですが、二度の戦争の勃発と終結を為したあの時期以来、私達にとって、その存在は記憶しつつも取り戻すことができないような精神的な何かが在って、鮎川の詩のなかには、そういうものが脈打っているようにわたしには感じられています。それは、単なる感傷や抒情の類に一括され得ない、ある歴史性を刻印された精神です。わたしたちはこの、それぞれの日常において、様々なものを心の内において抑えつけて、それがある意識性のうえに現われないようにしている。そうすることを余儀なくさせるものには、私的な事情もあれば、社会的な仕組みの作用もあるでしょう。そのように抑えつけ、あるいは外部へと排除するよう余儀なくされているもののうちのあるものが、鮎川の詩の言葉を媒介にして、心の内に帰ってくる。そこに、ひとつの詩的な歓びがあります。

 また、鮎川の詩には、日本の詩歌において稀有な、ある美意識があります。わたしがとりわけ魅了されるのは、仮構された亡き姉に対する思慕の念を託したと思しき幾つかの詩篇のうつくしさです。これは荒地派のなかでも鮎川に独特なものです。

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 残念ながら、詩を読むことに喜びを見出す人は少なく、それが戦後詩、現代詩ともなれば、殊更であることは今に始まったことではないとは言え、やはり納得がゆかない思いがします。そして、現在書かれている現代詩の非力さはどうでしょうか。いや、詩ばかりではない。文学そのものが私たちから失われて久しいのではないのか。

 そうした事態ににわたしは、「言葉が奪われている」という感覚を持っています。言葉が、奪われている。

 表現、というふうに本当は申すべきだろうと思うのですが、すると、たとえば「詩は表現ではない」というようなテーゼが脳裏を掠める訳です。しかし、そういう理論が文学の生命を絶ったとは言わないまでも、そのような理論の出現そのものが、文学の決定的な退潮を表現していると、今となっては云えてしまうのではないでしょうか。

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 鮎川信夫にもやはり、ユートピアが有りました。それは、反アメリカ、といっていいようなアメリカです。わたしたちの文学、総じて表現は、何処にもない国への憧れと想像力において分かちがたく関係しているのではないか、と、思い到ります。宗教にもまた、来世、といったユートピアをそれぞれの形態で持っている物語の形式を有している部分があります。文学も絵画も、古来、宗教的題材を扱って発展を示してきた訳です。そして文学の退潮と、現代左翼思想の退潮とは期を一にしています。

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 何処にもない国は、理想であり、祈りや願いがそこへ向かう標をなしています。ねがう、というわたしたちの仕草は、想像力と関係している。原始の洞窟において描かれていた動物画が芸術の始まりを示しているのは周知の通りですが、現在のわたしたちと、何がそう異なるといえるでしょうか。ねがうこと、祈ること、それを共有する所に、総じて表現の原点が存在していると云えるだろうと思っています。