朱雀の、啼く

文学と、政治と。

共有すること、鮎川信夫

 想像力は、たんに作家の制作上において問題になるものではありません。

 読み、あるいは総じて受容する過程においてもやはり想像力が求められます。芸術作品の現象は、作品をめぐる様々な精神的な営みの交錯をなしています。そこにおいて、作品が受容者と出会い、ひとつの作品現象が発生する。マテリアルな作品そのものは、この時、様々な受容者において共有されています。いえ、より精確を期すならば、「マテリアルな作品そのもの」自体、なるものは、実存するものではなくある種の理念として想定されるものに過ぎないと云えましょう。

 だが、このマテリアルな作品そのものをすら巡って、作品現象は共有性のほうへと傾きます。人は感動をしたい、と願い、その感動を人に伝えたいと願う。感動にも様々な形態があるでしょう。

 それは、作品現象に限った話ではありません。日々の物思いの共有への欲求があるからこそ、こうしてブログというものも発達してあります。

 いずれにせよ、芸術作品の現象は、想像力から想像力へと橋を渡されていく。だから、もし表現が退潮しているといえるとするならば、それは制作者だけの問題ではないのです。ここでもやはり、社会的関係としての芸術現象が問題になります。そして、芸術の社会的価値と意義とが。

 よく云われるのを耳にするのは、芸術には価値がないからよいのだ、というような解釈ですが、わたしはそうは思っていない。芸術には価値があるが、その尺度は、現実的なものの価値を計る尺度とは異なるのだ、というような説明にも満足を覚えることは叶いません。芸術には間違いなく社会的な価値、人類的な価値というべきものがあると信じて疑わない。

 

 鮎川信夫は、「精神の架橋」ということを書いていました。それは一見すると、「コミュニケーション」について指摘しているように見えますが、詩における関係とは、一般的なコミュニケーションの断念や否定にこそ基づくものであると思います。