朱雀の、啼く

文学と、政治と。

( 空虚について )

 わたしには思想状況について書くことはむつかしい。現在ある状況は思想状況として取り扱うことが非常に困難であるという認識があります。ゼロ年代というような概念があって、それはそれなりに正鵠を射ているのだと思います。しかし、それを分析する立場というのは要するに1980年代以来の日本ポストモダンの思想状況の延長を成しているに過ぎないのであると思います。いったい何が欠如し、何が空転をし、われわれの空虚はどんな形式を持っているのだろうか、というような疑問を持っています。空虚の形式こそが問われる必要があるのです。

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 吉本隆明には、「空虚という主題」という書物があります。空虚は必ずしも現代的主題をなしているだけではない、それは古来、人々の精神を底流する普遍的な一主題をなしてきたのだと思います。空虚という主題は宗教・文学にとっては一定の普遍性を有している。それが世紀末には世紀末的様相を呈して浮上し、あるいは戦後状況において戦後的様相において露呈する、といった現象がある。そして無論のこと、ポストモダン的空虚、形式主義といったものもあるのであって、それが現在のいわば土台ならざる土台をなしているようにわたしには見えるのです。この状況は性質が悪い。ここでは「現在」という範疇にすら括弧を付さねば書くことができないような事情というものが存在する。

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 かつて、黒田寛一の周辺では、「永遠の今」ということが口にされていたようですが、現在はその理想の丁度裏面をなした状況が存在するかのようです。永遠の空虚、という永遠の現在。しかし、それは何事の終わりも意味しはしないように思えます。終わることができないということも、この我々の現在の特徴をなしていますが、人間には終わりというものがあります。こういう矛盾点から、この時代的空虚は綻びを生じていかざるをえないのだと思います。生きる我々には終焉が実存します。

 近代文学の終焉、といわれる現象も、これは柄谷行人のあるパフォーマティブな日本文学史への介入の意図にでたものであると解されるべきであって、近代文学の価値が失われるといったことはない。ただそれが形態を変じて行かざるを得ないといった事情はあるように思います。この形態変化が様々な不安を喚起している。ですが近代文学が人間の生に根ざしたものである限り、それは常に参照されざるをえないのだし、生半可な「現代性」などは歴史的状況の変遷のなかでふり落とされていく他にないだろうと思います。どうして、低劣なパロディに満足ができるでしょうか。