朱雀の、啼く

文学と、政治と。

忘却についてのつぶやき

 現在は過去の様々な経緯のうえにあるのだが、後にくる世代は過去の経緯を、とりわけ近い過去の経緯を無視しがちな所があると思います。この現在が、先行世代の努力や経験の先に構成されているということです。未来への熱望から過去を閑却する身振りならば、それもある程度は自然なことと云えるかも知れませんが、この現在には、未来への熱望も過去への率直な反省も欠如しているように感じられてなりません。そのような否定的な場所で、思考停止というよりは堂々巡りを繰り返している。これは、次にくる飛躍の準備段階をなしているのかも知れない。ですが、その飛躍を真に意義あるものにする為にも、やはり自分が現在置かれている歴史的位置というべきものを明瞭にしておく必要が感じられてならない訳です。子が父を、あるいは母を乗り越えようとするのは自然でかつ意義のある傾向ですが、この現在においては、求められているのは世代間闘争ではありません。なんとなれば、世代間闘争はまさに先行世代が(60年代から70年代にかけて青春を送り、現代史に革新的な巨歩を記した世代についていっています)激越に果たした役割であり、闘争の退潮にともなって、世代間闘争の仕組み自体が権力側に折り込まれてしまっているから、その意義を失っているように思われるのです。保守的傾向の若い世代における復活には明らかに世代間闘争の影があります。しかし問題はわれわれは、いわば未来の歴史をいかに書いていくのか、という所にあるのであって、そのために有用ならば世代間の対立意識を用いもし、それが前進を阻害するならば対立意識そのものを相対化して、まさに必要な姿勢を身につけるのでなくてはならない。そう思います。そして、わたしたちの現在を照らして明るいものにするのは、未来への意志に他ならず、過去への郷愁ではありません。

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 先端的と目される知識人の言説に触れるにつけ、本当にこれで何かが変わるのか、わたしと何の関係があるのか、という感想が胸中によぎることをわたしは隠そうとは思いません。激越な闘争など回避して、ちいさな暮らしのなかで可能な変化を実践していくことの意義を否定しようとも思わない。しかし、現実の大きな矛盾の存在がそのなかに埋没しようとする自分を責め立てているのかも知れません。欧米やこの日本で、「ちいさな物語」とそれに類するさまざまな言説が瀰漫するなかで、ニューヨークの悲劇は生じ、われわれに歴史は終わってなどいないことをあからさまに見せつけた訳です。現段階では、ポストモダンとはやはり日常性への逃走以外のものではなく、そうした身振りでは蔽いきれない歴史の大きなうねりに対してはまったく無力であったのだと結論付けない訳にはいかない思いがします。世界内戦、などということも云われはしましたし、それはある真実を突いているには違いないと思います。グローバルな情報技術の進化に伴って、われわれの世界概念は非常に拡張している、その事実と、国籍を有し一定の土地に拘束されて生活する現実的な個々人の人間性とが葛藤に苛まれる。まさに人間性が試される経験をわたしは9.11において持ったのだと思います。

 ところで、いま必要とされているのは、ポストモダンの延長ではなく、モダンなものとポストモダンなものとの両者の関係の再考において得られるのではないか、という思いつきがあります。近代的なものの概念自体の問い直しのうちで、中世的傾向が今世紀において進行するという識者の予想を裏切るような知見の獲得に期待をしたい。