朱雀の、啼く

文学と、政治と。

現代詩の卵について

 とにかく、いい現代詩の作品をよみたい、という欲求に、いつの頃からか取り憑かれたようになっています。それも、戦後詩の歴史を刷新するような斬新な形式を備えたものを。これは実現不可能な欲求なのだろうか。文学史的な理解は、それは不可能だよとわたしに告げるのですが、そうであるならば猶一層欲求が昂進してしまう。如何ともしがたい。折にふれ思うのは、詩人がその初期において、まだ「現代詩」なるものについて漠たる智識より持たなかった時期には潜在的に感触されるある豊穣なものが、やがて智識を得、目的意識的に「現代詩」をかこう、という段階になると貧しく痩せ細り、やがては失われてしまう、というひとつのパターンについてです。わたしは初期というものにあくまで執心したい。吉本隆明だって、鮎川信夫だって、初期が優れているに決まっている。ついでに云えば村上春樹の小説だって。そんなことは一目瞭前なのであって、ほとんど議論の余地はないのです。ただ萩原朔太郎のような詩人については必ずしもそうは言い切れない所も思い浮かぶから、誰にとっても初期がいいなどとのたまうつもりもないけれど。わたしがもう5年近くも「現代詩フォーラム」を覘くことを日々の日課としているのも、詩人の初期の可能性とでもいうべきものへのやまない憧れがあるからです。はじめは半信半疑だったが、たしかに現在となれば、フォーラムが詩人の卵たちにとって好適な発表の場になりえているのは認めざるを得ない所がある。そういえば以前、現代詩フォーラム論的なものを纏めて散文カテゴリに投稿してみようかと考えていたのだが、何時の間にか忘れてしまいました。・・・

 それにしても、初期のいまだ日の目をみない時期の作品には感知される潜在的なある詩的な可能性とでも呼ぶべきものが、現代詩の体裁を取ろうとして貧困化させられるとしたら、これはまさに現代詩というジャンル性、ひいては作品の形式性に関わる歴史的な問題であって、感性的なものをその実現された表現形式との関係において掴み、形式の評価を遂行するのはひとつの批評という仕事の働きでありましょうと思う。現代詩には批評が機能していない、とは夙に指摘されるところでありますが(だが、それは文芸全体についていわれて然るべきでしょうが)、そういう仕事が為されない限りは現代詩の刷新というのは起こりえないだろうし、優れた作品と批評とが手を携えて進むのでなければ、意義ある変化というのはあり得ないとも思います。それにしてもこの現代詩へのわたしの拘泥の動機というのはどんなものなのかは我ながら不可解であって、よく反省したいところです。