よむこと

 熊野大学にはいったことがない。どんなものか体験してみたい。いつか、そんな日が来るかな。中上健次には思い入れがありすぎる。文学の体験といって思い浮かぶのはやはり中上です。自分の幼年期の光景に思いを馳せざるをえないのです。文学の体験は、まさに言葉を自分の身体のなかに通すこと。それが自己と共鳴し、自己の一部分であるかのようになってしまうこと。その体験には想定された作者との対話や投影も含まれる。話者と作者の差異など、文学の体験にとっては二の次でしかない。文学の体験はそれ自体が目的であって、理論の学習や適用といったことは補助的な手段でしかなかった筈だ。中上が生きていたらどんなふうに語るだろうか、と、折にふれ思う。なるほど中上教のわたしも信者か。だが文学の体験とはそういうものではないか。作者は帰依を引き受ける覚悟がなくてどうする。読者は自己を譲り渡す危険な賭けに出る勇気がなくってどうして他者の文が読めるだろうか、などと思います。