朱雀の、啼く

文学と、政治と。

健康について、その他

 最近は比較的に調子が良いらしいです。ものを考えるようなことがどうにかできているみたい、できそうだ。病気のせいかそういうことが非常にむつかしい時期を行ったり来たりしています。抽象的思考の困難というのは云われているようなので。病気、と、ひとくちにいうけれども、おそらくはその内部にあっては、病気/健康、の区別などは余り意味を持たないようにおもう。いくらでも疑えることが多い、自己についても、医者のいうことにも、テクストの記述についてでも。きりがないうえに、自分ひとりでは如何ともしがたくなってしまったから、さしあたり病気だと信じてみているが、根拠も定かではない不信感、疑念というのはなかなかどうして払拭できない。しかし健康さ、には憧れがあります。少しづつでも、取り戻していけるといい。余り、自己の同一性みたいなものに拘泥しすぎないで、肩の力を抜いて、程良く流されてゆければ善き哉、と。

 まあ、分からないけどね。分からないことばかりだ。それでいいのだろう。

 図書館、この町の図書館はほんとうにこじんまりとしていて、必要な書物もなかなか見つからないのだが、古くなった蔵書の無償提供を先日やっているのに遭遇して、40年もまえの岩波講座哲学だとか、まとめて入手することができました。いまはその手のものを、ゆっくり、読み耽りたいな、と、思う。中上健次の後期のエッセイ集もあった。まだよく読んでないが、雑誌などに書き散らしたようなものだろうと思う。たぶん、余り面白いものではない 笑 けれども、時代の移り変わりのなかで試行錯誤している作家の姿が思い浮かぶ。「紀州」のような文学的なエッセイ集とは違って、なんだか飲み屋でいい調子で語っているかのような印象です。正直なところ、あんまりお近づきになりたい乗りではないのだけれど。

 いつだったか、学生時代の友人が現代詩を評して「否定性」(の、運動?)と一言洩らしていたけれども、それは本当にそうだと思うんですよ。そのことの可否ということがひとつあって、わたしは否、だと思っている。否定性ということでいろいろなことを敷衍していえるんだろうと思うんだけれど、わたしがどうしても気になるのは、たとえば宗教にしても政治的な運動にしても、なかなか実践的なそれの内部からの詩というのはお目にかかれなくって、何か詩の世界みたいなものの再生産のためにする詩、というようなものが主流をなしているみたいにみえるんです。それはそれとして必要なのだろうけれど、どうも。石原吉郎は実践的なクリスチャンであったろうし、いやがおうにも、収容所体験というのは出てきてしまうし。そういうものから信仰や体験を除いた部分が消費されまた別様に書かれていくのだとしたら、つまらない。中上健次だって、差別現象や血族の葛藤のようなリアルなものを除いたらなんの緊張感もない、つまらないものになり果ててしまう。ボーイズラブの文脈で語られたりね。そういうの、つまらないよ。そんなふうにして無理におもしらがらなくったっていいんだ。と思う。分からないことは分からないでいいじゃないか。その分からなさに真摯に向き合えばいいじゃないか。なんて。