朱雀の、啼く

文学と、政治と。

インターネットにおいて書くこと

何かを書き記しておきたい、という欲求があって、一方では、何を今更書こうというのか、という諦めに似た思いがあり、その二つの傾向のあいだを振り子のように揺さぶられながら、わたしはこのブログを綴ってきたし、これからもそうだろうと思います。インターネットという場所は、わたしに対して、それほどの緊張を強いるということはない。快適な家にいて、友人と語らうような姿勢で臨んでいる。わたしの場合は、白紙のノートに向かう時のほうが、ある種の緊張をさせられるようです。確かに、世界中からアクセスが可能ではありますが、そういう可能性は、残念ながらというべきか、わたしの場合は、単なる可能性でしかない訳で、実際のアクセスは非常に限られたもので、半ば以上は偶然の結果だろうと思っています。こういう単なる可能性に対して、真剣になることは、わたしに笑いを誘発させるところがあります。だが、まさに真剣にその可能性に向き合う笑いの経験を、ほんとうはわたしは選んでみるべきなのかも知れません。そのほうが娯楽としても上質で、文としてもよいものが書けるものかも知れない。文は誰に対して書かれるのか、という疑問が一つあって、特定の他者や、曖昧に想定された読み手を越えて、ほんとうは常に世界に対して書かれているとしか言えないものかも知れない、という思いがあります。人が、そのような意識の有無に拘わらず、つねに世界において・世界として・生きているのと同じように。そして、この生きる場所に徹底して向き合うことが同時に世界へ開かれることであるように、それが有限な、特定の他者へ向けて組織された言葉であっても、それを徹底することが、世界へ向けて書くということに通じるものか、と、思います。そして、世界に対して書く、とは、本当はどういうことなのか。それは、たとえば神への祈願とどのように異なっているのか、そういう問題意識があります。

 笑い、といえば、わたしにはまだまだ、笑いながら笑われているという理想の境地には達することができないでいます。笑うことも笑われることも、ある意味では簡単なことです。だが、理想はあくまでも、笑いながら笑わせることなのです。あるいは、笑わせる、という作為もなく、自然な笑いが笑いを呼ぶという境地です。そういうものにわたしはなりたい。