朱雀の、啼く

文学と、政治と。

メモ、現在の文芸が喪失しているものについて

 いや、それを喪失と呼ぶことは、聊か適切さを欠いた身振りであることを、まずは反省しなくてはならないと思います。喪失の言説、空虚の言説が、いかほど私たちから力を奪ってきたことか。それは、私たちが意識的に抵抗すべき、いわば時代的な言説に他ならないと思います。私たちはそのような言説には既に飽き果てていて、喪失の否定、空虚の否定のための立脚点をこそ捜しているのではないでしょうか。現代詩については否定的な評価が多く聞かれます。それはまるで否定的な評価をこそ諸作品が存立根拠としている、そんなふうにさえ、思わされないではいられない程のものです。さながらそれが詩における否定性のひとつの帰結であり、証明であるかのように。しかし、仮にそのような傾向が本当に存在するとして、そのようなものはいわば負の否定性に過ぎない。その負の否定性のうちに滞留することの意義を信じることはわたしにはできない、と、告白しておきたい気持ちが一つあります。修辞的なものの高度化ということも、喪失や空虚といった事態のひとつの帰結としてあること、並びに否定性の追求の一形態であること、これは明瞭だと思います。主題的なものの追究、これは詩の外部と関わりあいますが、これが断念されて、付随的な表現手段の洗練が企図される。結果、現代詩は秘教的な外貌さえ帯びるようになります。表現手段の高度化とか、洗練、というふうに呼びうるものは、手段についての一定の了解を、書き手にも読み手にも要求するものに他ならないから。そしてそのように洗練された表現が奉仕する主題は、恐ろしいことに、空虚や喪失、に過ぎなかったりする訳です。確かに、総じて表現が虚を本質とするというような理解においては、それらの主題の追及は表現に本来的なものだとすることもできましょう。だが、あえて戦前の詩を振りかえってみるならば、そこにも勿論「空虚」は現れている訳ですが、たとえば「倦怠」や「望郷」といった従属的な形態においてです、しかし必ずしも常にそれが主題をなしているとは云えない。勿論例外はあります。たとえば、マラルメのような詩人はまさに空虚をこそ主題化していたとも受け取れるかとは思いますが、また日本の仏教的世界観を追求した如き歌人俳人たちにも、「空」の認識は認められましょう、思うに輪廻転生の如き世界観すらある形態における「空」の認識を契機としています。(そして現代詩の主題として指摘すべき空虚の概念と仏教的な空の観念とは区別しその差異をこそ計らなくてはならないのは勿論ですが、いまはその用意がありません)。いや、そういうことを書きたいのではなかった。もっと単純素朴に云って、たとえば政治の季節においては権力との闘争といった構えが現代詩には明瞭にあって、そこにおいて形成された詩的なものの遺産を食いつぶすようにして現代詩の現状があるようにわたしにはみえるということです。空虚、というものも直接的には闘争の終焉から必然的に現われる帰結に過ぎない。闘争には、政治的なものも個人的なものもあるでしょう。個人的な闘争と政治的な闘争は必ずしも常に無関係であるとは云えない。そしてこのような外部の現実との闘争の関係は、政治の季節においてのみならず、詩という表現形態において歴史的にもおそらくは世界的にも普遍的なものであって、そこからの撤退において空虚の追究ということが反復されてきたであろうこと、あくまで闘争の緊張においてこそ表現は展開する、意義を有するというような、素朴な表現闘争史観とでもいうべきものを書きつけておきたかったに過ぎないのです。しっちゃかめっちゃかですが。