朱雀の、啼く

文学と、政治と。

久しぶりに、

ブログを書いてみる

最近読んでいるのは、マクグラスアリストテレス倉田百三

倉田百三は存外に面白かった。どうしていままで読まなかったかと後悔させられた。おそらく第二次大戦中の政治的態度の問題から、余り読まれなくなったのではないか、と、推測するが、どうなのだろう。かつては青年必携の書であったという。たしかに古本屋さんで頻繁に見かけはするが、購入してもどうしてか開くことがなかった。

勿体ない。

たとえば、生きること、思索すること、文学的表現,それに信仰。そういうものを一つのこととして追究しようという姿勢がある。

それは近年ではすっかり影を潜めたひとつの理想主義の在り方だと思う。

理想そのものが苦吟しているのを感じさせられる昨今であるが。だが倉田は巨大な理想を抱くことを奨励する。いやむしろそれこそが一切のスタート地点であるべきなのだ、と思う。

シニシズムは少しも「格好よく」ないスタイルだと改めて感じさせられた。

だいたい、「おとなになること」と、シニシズムに傾くこととを結びつけて捉えるような風潮の瀰漫は、罠だ、っていいたいのだ。

しかし、自身の性についての赤裸々な告白には驚かされた。

「愛と認識との出発」のはなしである。

アリストテレスは、二コマコスを読んでいるけれど、別なのを読みたい。

勉強にはなるんだが、ちょっと今の自分の関心からは逸れてしまう。アニマも拾い読みしているが、ちょっと逸れる。

アリストテレス倫理学は結局、アニマの「状態」を目的にするものだと思うんだが、それが新鮮に感じられた。

霊魂といってもいいし、魂といってもいい。霊でもいいだろう。

んで、わたしは魂の問題については長いこと閑却していたものだから。だがとても大事なこと。

現代風に、精神、とか心、といってしまうと違うのだとおもう。アニマは。

わたしは病人だが、さほど精神医学を信頼していなくて。どうも、そこで扱われている心とか精神、といったものが窮屈に感じられるのがあって。

倫理というとすぐにある種の共同性と結び付けて捉えるのが現代風でしょ。

でもそうすると抜け落ちてしまうものが気がかりなんです。

マクグラスは、神学入門。

網羅的で、まだまだ読み込むには時間がかかりそう。