朱雀の、啼く

文学と、政治と。

自問のための、memo

 ある種の時代的な風潮のなかにおいては、それがアナクロニスムの響きを有してしまわざるをえないことは覚悟の上で、わたしには敢えて用いてみたい幾つかの言葉がある。

理想、というのがそれだし、マルクス共産党/共産主義マルクス主義というのがそれであり、また「英雄」というのがそれである。殊に若い世代の人々に対しては、理想の価値、というよりも理想こそあらゆる価値の源泉をなすのだという事実を強調して、ながく時代を覆ってきたシニシズム、多くの場合、日本的ポストモダ二スムと重なる性格を有するシニシズムからの汚染のないところで思考し、実践し、生きて貰いたいという願いがある。また、宗教批判の言説の歴史的意味についてもういちど反省してもらいたい。宗教の内からも外からも、そのような反省が求められているように感じられてならない。科学主義的な無神論にたいしていま非常に懐疑的になっている自分がいる。

 わたしは争いが嫌いである。人を憎むことも苦手である。そんな面倒からは遠く離れた所で生きたいと常々思ってきた。だが、わたしは非暴力主義にたいしては懐疑的である。ガンジーの偉業を認めない訳ではない。非暴力的な手段で、さまざまな世の矛盾の根本的な解決が図られるというなら、こんなに喜ばしく歓迎すべきアイデアはない。だがそれは生半可な理想主義以上に理想主義的、というよりも寧ろ空想的という印象を多くの場合に持たざるをえないのである。人は様々な動機やみえない意志に導かれて思考を営むだろう。果たして、非暴力主義に傾く人々よ、また、わたしのなかの非暴力主義よ、きみたちはほんとうに変革のほうを向いて考えているのだろうか。力を行使すべき義務から逃れようとはしていないのか。ある種の悪を引き受ける義務から逃れようとはしていないのか。論理を、様々な義務から自分を安泰に保つためのシェルターとして張り巡らせているだけに終わっているということはないか。

わたしはボンヘッファーのようなひとに思いを馳せる。また神の下す冷徹な罰や、人間に課すところの苛酷な運命について、思う。神にあってそれらは悪ではない。だが暴力的であることは間違いないだろう。暴力。いや、強力といったほうがこの場合適切なのだろうか。ともかくそこには力の行使がある。一方でわたしのなかには、力そのものへの忌避感があり、自己が力を行使することへの怖れがあるのだ。わたしはそんな自分に苛立っている。

わたしは眠る為にかんがえたくはない。目を逸らすために考えたくはない。残念ながら思考にはそれが可能だが。現実のなかに真実をみ、それに基づいて義務を果たしていけたらいいと、そんな憧れを持っている。

 かつては、科学的社会主義空想的社会主義という対立概念が幅を利かせていた。非暴力的な変革の実践、これは多くの場合後者に括られてきたはずだと思う。この二つの立場の間で闘われた葛藤について無反省な形で、いま非暴力を云々することは、わたしには奇妙に感じられてならない。だから、柄谷行人にも坂本龍一にも心底共感するようなことは、少なくとも今はない。いや、柄谷らが無反省であると断じたいのではないのだが、知ってか知らずか、後者の型を反復しているということはないのか。

 キリスト教社会主義というものもあって、現在もその流れは殊に南米などで続いているようではあるが、いったいどういうものなのか関心がある。マルクス主義からキリスト教へ転ずる例も多かったが、キリスト教からマルクス主義へ転ずるものも多かったと聞く。鶴田知也芥川賞受賞作「コシャマイン記」は、わたしが現在住んでいる郷里であるこの町が舞台になっていて、いま読んでいるのだが、鶴田などは後者の道を辿った典型的な例をなしていると思う。この頃どんな議論がされていたものか、「文芸戦線」などの雑誌が閲覧できたら確かめてみたい思いに駆られている。