朱雀の、啼く

文学と、政治と。

読書

 町立図書館にて、鶴田知也佐藤泰志、それにアイヌに関連する社会学のテクスト等、目を通す。雨、風は湿っているが心地よい。図書館はこの町にはめずらしく現代的な佇まいをしていて、その中にいても外で煙草を吸っていても気分が和らぐ。雨が、図書館前の広い空き地に茂る草木を潤している様が、わたしをすらゆたかな気分にさせてくれる。ドライブをしようか、ビンニラの丘まで・・・、などの思いがよぎるが、やめておく。

 それにしても、わたしには社会学は何だか肌に合わないように感じる。その意義を貶めるつもりは聊かもなく、あくまで個人的な嗜好の問題として。ひとつの疑いが兼ねてより有った。文学は哲学や社会学などの学問に分解されうるし、それらの学問がある時期以降、文学の代替的な役割を果たしているのではないか、そしてそれが望ましいのではないか、そういう疑義である。いまは、けしてそうは思っていない。文学は学問に解消され得ない、やはり芸術である。芸術としての限界があって、そこは政治や学問や宗教の営みに譲らねばならないことはある。しかし、それらに解消されうるものではない、ある程度における自立性を有したものだし、そのようにあるべきだということ。文学の核はやはり芸術としての感動にこそある。知識の伝達も扇動も、二義的な手段であるということ。当たり前のようだが、つい忘れがちになってしまう点だ。

 アイヌのコタンにおける生活が原始共産制的なものだったという記述があり、遠く思いを馳せる。わたしたち和人の収奪は苛酷を極めた。凄惨といっていい。無論、原始共産制ユートピアではない。厳格な掟が支配し、自然との闘争に明け暮れる日々である。それでもわたしは憧れを禁じえない。その厳しい条件のなかで豊かに溢れていたであろう心性のような何か。宗教と政治と生活とが一体であることによってはじめて守られうるような何かがある、あったのだとおもう。わたしは憧れる。

 

アイヌ神謡集 (岩波文庫)

アイヌ神謡集 (岩波文庫)