朱雀の、啼く

文学と、政治と。

鶴田知也 「べロニカ物語」、

を、町立図書館で読んだ。川村湊は解説で、(中上健次の)「紀州サーガ」に倣って八雲サーガと呼んだらどうか、等、書いているが、これも鶴田知也の「八雲もの」をなすというべき一作である。

けばけばしい脚色は一切ない。この八雲の地に、野生のべロニカが繁茂するに到った経緯を、聞き書きのように淡々と、伝える。それは悲哀のただよう物語である。読んでいるわたしのなかで、生活する人々の姿とその過去をなす歴史とが混淆するような思いがする。僅かに百年にみたない過去が舞台ではあるが、人間は、千年も二千年も本質において変わらないものである。そこに古めかしさなどは感じない。過去の作品を読む場合に、様々な現在との差異を考慮しなくてはならないと謂われるのは、結局のところ、その変わらない、読者とひとしい本質を掬いだして、それに触れあうためであると思っている。それが、テクストを生かす。ちょうど、キリスト教における聖書解釈が、時代的制約から自由な本質をそこから取り出そうとするように。これら八雲サーガにふれながらわたしは、小説の経験、と、物語の体験、というようなことも同時におもう。一般に小説の受容のされかたと、多く口承的な物語のそれとは異なってきたはずだ。わたしは自分について、小説的な人間では余りないとみなしている。いずれかといえば、物語的な人間である。小説をも物語的に受容してきたものとかんがえる。だが受容の様態における小説と物語の区別など、いまはいい。いわば物語的体験とでも呼ぶべきものの、いかに稀薄な現代であることか。否、ほんとうはひとつの巨大な物語の支配の下で呻吟しているのが、現代のヒューマニティではないか。その物語の生命の核をなしているものが資本主義であり、日常性をめぐる様々なちいさな物語がそれに従属しているようにわたしにはみえる。それらが物語を抑圧し、小説を解体するだろう。

 曇り空のため、皆既日食はみられなかった。諏訪内晶子のCD盤が半額で売られていたので購入する。itunesの音質の低さにはうんざりしている。音楽熱が昂進している昨今です。