朱雀の、啼く

文学と、政治と。

近況など

 調子がいいのかわるいのか、音楽ばかり聴いています。勤務時間以外はほとんど部屋にいて音楽に耳を傾けていて、他に特に何もしない。十代の頃のようにひたすらに聴いている。二十代は余り音楽に熱心でなく、「音楽断ち」と称してオーディオのスイッチを押さない時期もあった。その頃の空白を埋めんというような勢いで、交響曲、バイオリンやフルート等の器楽曲ばかりひたすらに聴いている。もっと若い頃に音楽の勉強をしておいたら、と、今更ながらの後悔が聊かよぎらない訳ではないのだが、良し悪しは別として、自己形成に焦燥する時期はもう過ぎているのは確かだろうと思います。それが何で、何処にあるのかは不明瞭なのだが、向き合うべき何者かに向き合っていない、という思いからくる、何かしなくては、という焦燥については持続している。結局、読書だってそういう焦燥から求めてきたものだ。いまは何かしら方向性のようなものが定まらないのだけれども、それはやんわりとした不快を日々感じさせるわたしにとっての問題なのだけれども、あるいはこれも必要な時期なのかもしれない。と、自分を慰めたりして。

 ナクソス・ミュージック・ライブラリー、というサイトがあって、有料ではあるが、クラシックを主とした膨大な音源を利用できるようになっていて、もっと若い時分にこういったサービスに出会えていたら、など思いながら聴いている。地元には大手レンタル業の小規模な店と、ちいさな楽器屋さんしかないため、音楽に出会う手段として本当に嬉しいものです。あとはオンラインのCDレンタルも利用している。クラシックは余り品揃えがないのが残念ではある。

 ロックやポップスやジャズといったジャンルを厭うようになったつもりもなければ、クラシックに纏わりついている階級的とでも云うべき如何わしさに魅了されたつもりもないのであって、要するにわたしは強欲であって雑食的な田舎の非教養人にすぎないのです。クラシックを聴きこむ順番が回ってきたという感じ。ただ自分の感性のようなものには忠実でありたいという思いは強いとおもう。

 で、自分のある種の非教養性への劣等感があるからこそ、生半可な教養を恥もなく振りかざして、教養的なものの社会的な価値や纏わりついているイメージを利用するような輩には鼻白む思いがするのであって、そういう文や人に直面すると、聊か攻撃性が首を擡げる所が自分にはあるな、と感じます。同時に、古典的な芸術への階級的な、一面的な嫌悪にもくみし得ない。ある種の共感は持つけれども。そういうところはあります。

 しかし、いかんせん、勉強が足りないな、自分。聴きながら自覚するもんね。さて、何から手をつけたらよいものやら・・・