朱雀の、啼く

文学と、政治と。

デザインを変更してみる

 衣替えにはまだ幾分気が早いけれども、ブログのデザインを変更してみました。精々、月一回から数回しか更新できていない寂しいわたしのブログではあるけれども、見栄えというのはやはり気になる。ずけずけと書いてしまうが、わたしはそれほど他者のブログを仔細に読んでいる訳ではない。自分自身、大切なことはブログには書きにくい。匿名性を抑えている、というか本名で住所までかなり限定されうるようにしてあるので、世間体的なものもあって、内容にも配慮しなくてはならないから、好きなことを好きなように書く、という風にもなかなかゆかない。多かれ少なかれそういう所はみんなあるんじゃないかと思う。つまり、様々なレベルでの自己検閲というか配慮を経たうえで掲載しているものと弁えている。そこで、文学的な文章における自己検閲や様々な書き手の配慮、といったものと、ブログにおけるそれとを比較してみたい欲求に駆られはするけれども、今はいい。さしあたって、人はそういうものの内にあって発言するということを書いておきたいのだ。で、ブログにおけるそれは、わたしの嗜好にとっては、いま一つ熟読を誘うものではないという一種の不満を書いておきたかったのだ。そうしてデザインとか、字の大きさといった、非内容的なものが意外に大きな役割を果たしていると思う、少なくともわたしにとって。ところが、はてなダイアリーに用意されているデザインにはわたしの嗜好に合うものが中々ないのである。困ったものだ。だから寧ろ、無地に大きめの字だけ、といった素朴なものに心惹かれる所がある。そして、無地というのは変更ができない。ある無地から別の無地へ気分に従って変える、などということはできないのである。当たり前なのだが。そういう訳で用意されたデザインを試している。

 と、書いてきて、変更可能な無地もあれば変更不可能な無地もあって、わたしは両者を混同していることにふと気がついた。けれど、それも今はいい。

 それにしても、今年に入ってからの回復ぶりというのは目覚ましいものがある。論理的な文章を書くことが非常に困難だった日々が長く続いていた。失語、というような大袈裟なものでは断じてなかったのだが、一種の吃音に近いものがあったといえるかも知れないと思う。と、言っても、いわば、発話以前の吃音である。思路が吃音しているような感覚があった。いまもある。だが、病気の話もよしにしよう。誰が好んでそんなものを読みたがるだろうか。いや、どうだろう。よしにしよう、よしにしようばかりで、迂回に迂回を重ねるのも何だか妙ではある。ははは。シベリウスが流れている。