無神論の意義

 amazonでオーダーしていた2冊が、ようやく届きました。辺境の小さな町で暮らす身には、通信販売の発達は誠に悦ばしい。だが、池袋のジュンク堂、リブロ、もはやないが、ぽえむ・ぱろうる、それに早稲田の古書店街が無性に懐かしくなる時がある。まァ、また、あちらで暮らすこともあるのだろう。それまでの辛抱。

 ヘーゲルの「キリスト教の精神とその運命」は、青年期ヘーゲルの神学論文群のうちでも、殊に著名な論稿である。ディルタイの発掘になる、と記されている。革新の意志と予感とを溢れんばかりに滾らせている、若いヘーゲルの姿を思い浮かべています。で、やはり、こういう場で書くとなると、宗教的なものは如何なものか、という疑念を想定せざるをえないのでそのことに、稍、触れてみるならば。

 わたしは、科学主義、というべきものにはなじめないでいる。人文科学にせよ自然科学にせよ、固有の限界を持っていて、それをいくら拡張してみたところで、所詮、自然的ー人間的事象の全体を扱うことは不可能だと前提しています。科学が、宗教の占めていた社会的地位、権威性を横奪する過程が近代史的過程のひとつの流れをなしてきたのだと思いますが、その過程もまた、ひとつの臨界点に差しかかってきているのではないか、と、感じている。科学の方面についても宗教の方面についても、申すまでもなく私はまったくの素人に過ぎない訳ですが、そういう前提をおいたうえで、読書をすすめてゆきたいと思っている。科学そのものと科学主義なるものは、申すまでもなく異なるものです。科学がその固有の限界を踏み越えて語ろうとする時、それは科学主義と呼ばれるべきものに転落するだろう。科学という名のイデオロギーです。当然、この批判はマルクス主義の歴史に対しても差し向けざるを得ない所があります。社会主義国家における宗教政策の是非を論ずる用意はありませんが、少なくとも宗教思想の水準において、一面的な無神論は今や説得力を欠いているようにわたしには思えてならない。無神論の積極的な意義というのは、諸宗教の調停者という消極的な働きにこそあるのではないか、と、見立てている。段階的にいうならば、まずは無宗教が政治的権力を獲得することによって、諸宗教の平和的共存を獲得する、というのが、わたしのひとつの理想としてあります。だが、その立場を踏み越えて、宗教は迷信であるから弾圧しても当然である、というような考えに至るとなると、これは戴けないと思う。マルクスは神の意志について語っていない訳ではけしてないし、「ヘーゲル法哲学批判序説」における宗教についての叙述は、宗教の無価値や迷信性、低劣さ、詐術などを一面的に訴えるようなものではけしてない。それはある種の同情、乃至、共感に満ちた、宗教批判者として最大限の美化を伴ったものであったとはいえないだろうか。ただ、一方で、私には、無神論そのもののあるべき発展を注視したいという意欲はあります。即ち、無神論は、死を如何に扱いうるのか。死んでゆく者の耳に、いかなる真理を与えうるだろうか。その真理が愛と慰めとに溢れていることが、可能であるや否や。おそらく、無神論といい科学主義といわれるものも、死にたいして真に真摯であろうとするならば、宗教的な輝きを帯びざるを得ないだろうという見立てが、私にはあります。

 

ヘルダーリン詩集 (岩波文庫)

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