朱雀の、啼く

文学と、政治と。

ヘルダーリンを読みながら

 岩波文庫、川村二郎訳、ヘルダーリン詩集。川村二郎は、先日偶然にひらいてみた30数年前の詩誌において、天沢退二郎と対談し、詩の現状についてふれ、「フォルム」の欠如、乃至、崩壊について発言していた。現時点からふりかえってみて、実に正鵠をえた指摘だったと感じ入った次第である。天沢としては反論したい所もあっただろうが、詩がだいたい60年代を境にして、あらゆる水準におけるフォルムを、時に意識的に、あるいは、なすすべもなく、崩壊へ導かれていったことは明瞭であると思います。申すまでもなく、わたしは今更、文学の終焉だの詩の滅亡についてここから結論したい訳ではけしてありません。実のところ、時代がどうであれ状況がどうであれ、わたしの詩への欲求にはほんとうは余り関係がないように思われるからです。ただ、現在においても猶、フォルムの喪失において何が書かれ、また読まれるべきか、そういう形での問いは、詩について考慮するうえで必要な前提だとかんじるんです。

 で、たとえば、詩というのはフォルムの文学ジャンルである、こういう命題が提出可能であるとしたならば、フォルムを失った現代詩はまさにジャンル的な本質を喪失しているということもまた帰結できるのではないか。ここからまた、例の、「空虚」の観念が連想されてしまうのもまた自然なことではないでしょうか。本質を欠如させたまま空転を続ける言葉たち、すなわち現代詩です。もちろん、このフォルムの崩壊から欠如への、そして欠如が常態化したうえでのある種疑似的なフォルムの流行というのは、詩という文学ジャンルのみの形式的な問題ではなく、全体的な社会状況の推移と一致するものだと考えています。

 それはともかくとして、ヘルダーリンについて書いてみたいのですが、今日は眠くなってしまったので、さしあたり、ここまで。

 

ヘルダーリン詩集 (岩波文庫)

ヘルダーリン詩集 (岩波文庫)