ヘーゲル 1

 気候の変化の影響か、知らず知らずの内に疲労が溜まっていたものか、おそらく両者なのだろうが、数日前から再発した腰痛が、よくない。椅子に腰かけて読書ができないのがつらい。今日はヘーゲルを読んでいた。「キリスト教の精神とその運命」である。第一章、「ユダヤ民族の精神と運命」、第2章、「イエスの登場」を終りまで読んだ。で、ヘーゲルというとwikiなどでもみられるように、「ドイツ観念論哲学の大成者」といった紹介のされかたが多く、それはその通りなのだろうが、わたしの関心は哲学よりは宗教論のほうに近いようだ。ヘーゲルの核心をなしているのは、やはり宗教思想だと思うのだが、哲学を宗教から分離し自立させようというような時代的傾向もあろうし、日本の戦後のヘーゲル研究が(おそらくは)主としてマルクス主義の潮流のなかから行われてきたというような事情もあろうが、余り宗教論には関心が払われていないのではないか、というような思いもあります。(というか、わたしの青春時代をうすく浸していた末期ポストモダン的雰囲気というのはそういうものだった、としたほうが適切だろう。とにかく、いわゆる宗教への軽侮の思いがあったように記憶しているが、どうだろう。反省したい点である。)

 さて、第一章「ユダヤ民族の精神とその運命」では、「民族精神」の概念を軸として、ノア、二ムロデからアブラハムモーセをへて発現してゆくユダヤ民族の歴史が分析されている。運命、とは、ここでは、精神が歴史的に採る諸形態の連なりを指しているようだ。この「精神」は、ユダヤ民族の始祖であるアブラハムの精神において見出され、それがユダヤ人の運命を規定しているものとヘーゲルは考えている。では、アブラハムの精神とは何か。それは、「一切のものに対して厳然たる反立の態度を固持する精神」とされている。また、アブラハムをして、「地上の異分子」、「異邦人」ともヘーゲルは呼んでいる。わたしがすぐに連想してしまったのはフランツ・カフカであったが、それは今はいい。それにしても、この論考が書かれたのは1798年から1800年頃とされているのだが、当時すでにそうした、やや紋切型となった感もあるユダヤ人観が存在していたというのが意外でもあった。この論考じたいに、わるくいえば差別意識の発現とも受け取られかねないような雰囲気が瀰漫している感がない訳ではないのだが、こうしたユダヤ人観というのもいわば政治的には問題がないとはいえないような気もするが、どうだろう。日本にいてユダヤ人を隣人として暮らしたことのない身としては、想像を巡らせることしかできないのだが。ただ、ヘーゲルの意図は明瞭であって、イエスを称揚するために粗暴とも受け取られかねない形であえてユダヤ人を貶めている。対比はギリシア文化との間にもあって、ギリシア的なものを称揚するためにユダヤ的なものを貶めているのである。これは差別現象に関して何やら根深いものを有している振る舞いであるのではないか、そんな気配がしない訳ではないが、いまはその点を深く追究する用意はないので控えたいと思う。ヘーゲルと民族差別。これはけして無縁とばかりはいえないように思う。ちょっとその点には意識して読み進めたい。(ちなみに、三島憲一によれば、ヘーゲルの民族精神の概念は西田幾太郎によって日本的なものに導入され、それが戦時の日本のイデオロギーとある種の関係性を有していたという批判はあるようだ。)ともかく再三再四、奴隷民族としてのユダヤ人が語られているのである。

 で、アブラハムの思想としてのユダヤの神と世界との関係はいわば「異他的」であり、その世界との関係性は、ユダヤ人のその他の諸民族および自然との関わりと同一である旨が指摘されている。アブラハムのideeの根底には、「全世界への侮蔑があった」というのである。エジプトへの定住以前のユダヤ人は遊牧民であったが、さて、ドゥルーズのいうノマディックというのはこの場合どんな風に関わってくるだろうか、など思う。ドゥルーズ=ガタリの念頭にあったのはモンゴル民族だったろうか、北アフリカ遊牧民であったろうか。ここでは遊牧生活は少しも牧歌的には語られていない。そしてついに、「ユダヤの国民性の魂」として「人類への憎悪」が指摘されるに到っている。

 うーん、これは本当に危険な書物なのかも知れない。まだ読了していないので最終的な判断は差し控えたいが、自分が考えずに回避してきたいろいろな問題について直面させられるような思いがしている。(追記。西研によるあとがきに、ヘーゲルには反ユダヤ主義の「色合いは全くない」とある。のちの著作には明確に、反ユダヤ主義を非難する記述があるという。だが誤解を招きかねない論考になってしまっているのは、執筆当時の若さや時代的背景を考慮すれば致し方のないことなのかもしれない。)

 このようなヘーゲルの立場はだがおそらく、イエスの立場に立つ所から来たるものだろうと思われる。ユダヤ的なものに反抗してたちあらわれたイエスの立場である。アブラハムの精神における「反立」をさらに否定したのがイエスだとおくならば、これはまさに「否定の否定」である。この時期にはまだヘーゲルにあって厳密な方法的自覚があったとは考えにくいが、既にここにおいて、いわゆるヘーゲル弁証法の萌芽がみられると云えはしないだろうか。