朱雀の、啼く

文学と、政治と。

ヘルダーリン 2

 当たり前だが、仕事を終えた後に読書をするのはなかなか厳しいものがある。今日はヘーゲルヘルダーリンに関する論文を検索して読んでみた。ヘルダーリンの詩は古典主義からロマン主義に転ずる過渡期にあって、そのいずれに属するとも判別しがたい独特の様式をなしているといわれている。このあたり、古典主義にもロマン主義にも馴染みの薄いわたしには実感できないのだが、たとえばノヴァーリスであったり、シェリーであったりの詩篇の幾つかと対照すると、二人に感じられるある種の甘やかさであるとか、饒舌さが、ヘルダーリンには殆ど感じられない。ロマン主義の詩に感じられる甘やかさは、現在においてもなかなか理解し入り込みやすいものなのだが、ヘルダーリンはその点、固い岩のように安易な共感や没入を拒んでいるように感じている。だが、そのことによって守られている格調の高さがあると思う。そしてこの格調の高さとして感受される気配が、詩において現れる、神、といった観念に、崇高さとでも呼ぶべきものと、ある現実性とを与えているように思われる。近年では、フィリップ・ラクー=ラバルトが、ハイデガーによるヘルダーリン研究を改めて照明しているという。ヘルダーリンの詩のみならずその思索にまで踏み込んでみたい衝動に駆られている。ヘルダーリンの遺稿には、「精神のコミュニズム」なる概念が記されており、かつてはマルクスヘルダーリンを併読する傾向すら存在したといわれている。だがその前に、ヘーゲルとの関係について捉えたいとおもう。直感的にヘーゲルヘルダーリンは互いに分かち難いような深い影響を与えあったに違いないと前提していたのだが、やはり、ヘーゲルに統一(全一性)と愛の観念を与えたのはヘルダーリンであって、ヘーゲルにおける愛の観念は、かれの体系形成において「生」へ、そして「精神」へと発展したというのである。フィヒテ受容をめぐる両者の差異ということはあれ、発症以前のヘルダーリンヘーゲルを遥かに凌駕する認識を獲得していた、と指摘している研究者もある。非常に興味深い。

 今日は、滝沢克己を読み返しながら、眠ろうとおもう。「現代」への哲学的思惟、わが思索と闘争、が、手元にあります。