朱雀の、啼く

文学と、政治と。

ヘーゲル 2

 「キリスト教の精神とその運命」第2章、イエスの登場。ここから、聖書の記述に即して、ヘーゲルのイエス観が開陳されています。ここでは「実定性(既成性)」なる概念がキーワードになっている。ユダヤ教のいわゆる律法主義と、当時、広く名声を博していたカントの倫理思想とが、イエスの立場から批判されています。カントのいう道徳的命令は実定的であり、いわば律法を自己の内に持ち、普遍的な理性の名において、自己自身の奴隷になるに過ぎないではないか、と。このような義務の概念のうちでは、人間的な諸関係はまったく見出されない、と、書かれています。法の精神とは、分裂したものの統一にあるとされ、イエスは、「人間をその全体性において取り戻そうとしたひと」とされている。

 ヘーゲルにとっては、普遍と特殊の関係すら、分裂であり対立であることが窺われる。のちに、再三にわたって、全一性なる概念が登場するが、ここにヘーゲル=イエスの立場があると察する。そしてそこにわたしは深い共感を覚えました。ヘーゲルの思想の核心をなしているのは、分裂を再び統一に帰し、一切がいまーここにおいて調和するような、ふかい愛の観念だと思う。そしてそこに寄与したのがヘルダーリンであるならば、なんと素晴らしい、詩と思想の融合であることでしょう。感嘆せざるをえません。

 わたしが抱いていた「哲学者」ヘーゲルのイメージは、読み進めるにつれ見事に崩れていった。法哲学や、市民社会の分析、等が、夙に名高いこの思想家の核心に脈打つ、詩的なる愛の観念。いったいそこを見ないで、かれの思想の断片を流用することのいかに浅薄なことか、と、思わざるを得ない。論理学さえこの核心的な愛の思想とけして無縁ではないのである。昨今、ヘーゲルへの注目が高まっているらしく聞いているが、ここに基づかないどんなヘーゲル観もわたしの関心を引くことはないだろうと思う。もう少し時間をおいて読後感をしたためたい。感嘆が、付すべき言葉を恥入らせる、ということがある。