朱雀の、啼く

文学と、政治と。

断片 6

 アナーキズムに対して、さしたる理論的な関心はない。というより寧ろ、大杉栄にもクロポトキンにもバクーニンについても、わたしは殆ど知識を持たない。だが、近代文学にとってアナーキズムの様々な形態が果たした役割は、けして看過できないものがある。既に萩原朔太郎が、自らをアナーキストに擬するかのような表現を取っているが、戦後ならばたとえば埴谷雄高も、マルクス主義よりも寧ろアナーキズムに近い思想をもっていたのであって、シュテイルナーに影響を受けていたと聞く。近年ならば柄谷行人の思想も同様であると感じる。アナーキズムの詩人といえば、秋山清がいる。飾りけの少ない、だが慎重に選ばれた、やさしい日常的な言葉の柔軟な組み合わせそのものが、ひとつのアナーキズムの方法と理想とを表現しているように思われる。この詩人の作品群は、半世紀の時を越え、現在に書かれ読まれている現代詩にも、一脈通じるところがあるようで興味深い。読みたいのだが手許にあるのは、3年前の現代詩手帖における秋山清特集で紹介されている数篇のみ。だがどれも、静謐な魂、とでも呼ぶべきものを感じさせるうつくしいものだ。いわゆるプロレタリア詩や、アナーキスト系の詩にいま関心がつよくある。何よりそれらは現在において余りに忘却されてはいはしないか。そのことと現代詩の一種の形式主義とは同じことを意味しているように思われてならないのである。