朱雀の、啼く

文学と、政治と。

断片 7

 かつてロンドンにおける講演会で、ステファン・マラルメは、フランスにおける詩の定型からの解放の始まりを、ふかい驚きをもって伝えていた。それから100年以上の時が過ぎ、日本においてさえ現在では、詩とは一般に自由詩を指し、定型詩の試みはいずれも試みの段階を出ることなく幾度となくさまざまな詩人によって繰り返されている、という事実がある。方法も思想も百花繚乱、過去の様々なエコールの流れが一人一人の詩人において混在し、独自の仕方で結びついているかのように思われる。だが言うまでもなくこの現状は同時に混乱、混沌という否定面を持っていて、誰もが新たな方法と思想とを探究しながら果たすことができないでいることの裏返しでもある。中心的な詩人もエコールも存在しない。この四半世紀にわたって、詩は、いかほどの成果をあげ、また、前進をしたといえるだろうかというならば、これは懐疑的にならざるをえない所がある。なんでもありのようにみえるが、同時に、ひとつもありはしない。そんなふうにさえ私には見えてきてならない。いっぽうで、ほんとうに「なんでもあり」なのだろうか、という疑念も持っている。むしろ、「なんでもあり」というのは疑わしい前提に過ぎないのであって、そのような前提こそ、何かしら新しいものの出現、詩の歴史の前進を予め阻んでいる障碍に他ならないのではないか、と。わたしには定型をはなれた自由詩の問題は同時に、我々の自由とありうべき連帯の問題のアナロジーのようにさえ見えてくる。自由詩の現状と現代民主主義・自由主義