朱雀の、啼く

文学と、政治と。

断片 8

 しずかな休日である。晴れていて風もあたたかい。窓からは、踊るように、傾いた西日が入ってくる。今日は、谷川俊太郎の詩集、石原吉郎の詩集、聖書、讃美歌集などをひらいては、茫然と眺めていた。讃美歌集の詞の言葉は、素朴ながら、ただ眺めているだけでも、目に快いものである。そこから、祈りを背景に現代詩の制作を続けた、石原吉郎という精神と肉体の、ある種の苛烈さを思う。いったい、詩人というものは、否応なく時代をその身に背負わされてあるものである。それはおそらく、宇宙的と形容されたり、自身の作品の中で、世間との交わりに拒絶を示したり詩人であることを否定する詩行を持っている谷川俊太郎さえ、本人の意志には関わりなく、どうしようもなく担わされてしまうものなのだと思う。石原にとって書くことは、自身に何を与えてくれるものであったろうか。それが安らぎであってほしい、というのは、読者の勝手な願いに過ぎないだろうか。かれの作品の言葉が私の心に印象付ける苛烈さは、おそらくは時代をも詩人の私的な意図をも越えている。時代的なものを担いつつ時代を越えた普遍性を持っている。そういうもののみが私を私自身に立ち返らせるとともに私に世界を開いてくれる。それはある種の神話的世界でもあるのだが、いうまでもなく科学的世界観もひとつの神話的世界であることを前提としてのみそう呼びうるような意味で、石原の世界は神話的なものなのだ。欧米のある種の思潮は、自分たちのキリスト教世界観の神話性の自覚をなおざりにして、他民族の世界観ばかり卑しみを込めて「神話的」と形容してきたのではないか、そんな疑念がふと頭を擡げる。さて、神話や物語なしに、本当にあるべき形の生というものを人はおくれるものや否や。その点には懐疑的にならざるをえない。中上健次がそうであったように、石原吉郎にもまた、中南米マジックリアリズムとも相通じるような問題が孕まれているようにもまた、思う。それは驚異的自然だのシュールレアリスムの途上国の現実との化学反応だのといった表層的な問題に留まらずに、かたりかたられる物語を亡失したわたしのような人間たちがふたたび物語の流れの中に生きるために必要なものを示唆しているのではないか、そんな心持ちさえされてくるのである。