朱雀の、啼く

文学と、政治と。

断片 13

 労働とは何だろうか、と、働きながら、考えたりもする。わたしの労働観の基礎は、いたって素朴なものだ。開拓民(=侵略者、でもある)の生活を、想起する。狩猟、採集、耕作。社会があって働く、というよりも、働くことで、これから社会が形成されていく、そういう段階について。むろん、歴史的には、それは純然たる原始段階などでは、さらさらないのだが、そこに見られるような労働の本来性は、高度に複雑化した社会のありようのなかで、ともすれば見失われがちになっているように思われるからだ。労働は、一切の人間的事象の基礎をなす。労働から家族形成が可能になり、社会が組織され、文化が成立する。また、労働は、外的自然に働きかけるだけでなく、自己にも帰ってくる、双方向的な行為であって、内的自然をも、心や脳髄にも働きかける。それは人間的成長を促しもするが、<人間ー自然>の対立図式のうえでは、それは、人間による自然の搾取=開発なのだから、人間的成長のみを手放しで讃美する訳にもゆかない。無政府的な開発の暴走は、自然の秩序を著しく損ね、それが種々の異変として現れているのが、この現在である。それは、内的自然についても当てはまるのであって、人間的なものと自然的なものとの調和ー均衡こそ、模索されなくてはならない。これはヒューマニズム批判の一根拠ともなりうる論点であると思う。人間性は、必ずしも善とばかりはいえない。むしろ、善悪の二重性に常に苛まれているのが人間である。そこからの超越、いわば、内在的超越こそ、信仰が扱う領域であると思う。如何ほど、労働生産性が高められ、社会が発展したとしても、人間の二重性が、そのことによって、揚棄されるということはありえない。その意味で、信仰は非ー歴史的であり、常にそれは<原>ということ、始まりにして終わりであるような、普遍性に関わるように思われる。いかなる未発展の社会においても、高度に複雑化した資本主義社会においても、常に立ち返るべき場所に、それは、関わっているように思われる。労働には、喜びがあると同時に、つねに一抹のかなしみがある。それは、我々の肉というもののかなしみである。それを疎外と呼んでもよい。疎外は、分業によるもの、階級対立によるもの、などの多層的な現象だが、同時に、より根源的には、霊ー肉の分離対立の事実に根ざしている。ところで、歴史の発展の終局において、何が起こるだろうか。真の人間的解放ということと、最後の審判、ということは、どんな風に関係するだろうか。そんなことを物思っている。