備 忘

 文学とは何だろう、文学者とはなんだろうか、と、思う。わたしの場合、信仰と学問との狭間において、それを問いかけている。聖書には全てが書かれているから、祈りながらその言葉に身を委ねればそれでいい、という考えは、おそらく正しい。信仰を志すものとして、それが理想ではある。しかし、いわば「定義上」、我々は人間であることしかできず、神にもイエスにも絶対に成り代わりはできないのだし、主の御旨にどんなに忠実であろうとしても、けして僭称は許されてはならない。それは、「救い」「救済」の事実があってさえ変わらない、我々、人間の条件である。世に生きるものとして、この世において、何をなすべきか、迫りくる多様な現実的な諸問題に対して、いかに対応してゆくのか、それは結局のところ、人間としての我々、自由を本質とする我々の、その自由が問い詰められているのだと感じられてならない。全ての事行を神に帰して、世の「肉的な」一切を御手に委ねられる境地は、ひとつの信仰の極限として、理想として、たえず尊重されて然るべきであろう。だが、我々に肉が与えられ、たとえ悪の支配下においてあろうとも、世が与えられてあることの意味を、我々はいかに迎えるべきであろうか。世において何をなすべきか、この自己と万民の生を、肉を、いかになすべきなのか。そこに人生観の問題が出来し、また、政治と文学との問題が惹起されるのであろうと思う。わたしが聖書において躓くことの第一は、パウロによる諸書簡にみられるような、現世的な権力に対する受動的な姿勢であるが、これはおそらく、「カエサルのものはカエサルに」というイエスキリストのみ言葉に端的に表れている所であろう。この章節をいかに受け取るかが、同じ教えに基づきながら、政治的見解を異にする立場が現れてくるひとつの原因をなしているのだろうと思う。私は夢想せざるをえない。神の愛が万民に喜ばれ、万民が愛を神に帰し隣人に齎しあうような一つの政治的秩序を。原始キリスト教団は相互扶助に基づく共産的集団であったと聞いている。それが同心円的に外部へ拡大していくことは、現実にはありえないとしても、歴史の力の多様な戯れのうちに、ついに未来のある時点において、そのような完成された秩序が到来することをわたしは確信し、また、夢見ている。わたしに今文学を志すことが許されるならば、そのような世界歴史認識に立って、そのなかで人間の感性というものを最大限尊重し、育んで行く、そのような責務を担いうるような文学を、詩を、わたしは志したいと思う。近代文学の終焉がいわれて久しい年月がたっているが、そのような時代的動向に左右されることなく、自分の表現を模索していきたいものである。