朱雀の、啼く

文学と、政治と。

感 受 性

 最近、気になっているよく判らない概念に、「感受性」というものがある。様々な現実的な出来事や、芸術作品に接して、敏感に心が反応する人のことを、「感受性が高い」と、いったりする。よく似た使われ方をする言葉には、「感性」といったものがある。どうやら、カントをひとつのピークとして、シェリングヘーゲルもこれを扱っているようだが、調べがついていない。哲学説としてどうなのかはさておき、私がこの言葉にある種の齟齬を感じていたのは、おそらく、「感性なんてないほうが生きやすいじゃないか」、「感受性なんて生活の邪魔になるだけじゃないか」さらに極論するならば、「心なんてないほうが楽なんじゃないか」、そんな思いに付きまとわれてきたからであると思う。また、芸術の人類史的意義、とでも呼ぶべきものに、たえず疑いを有してきたということもある。芸術の根拠。社会的意味。どうも、そういう事柄を整理してみないと、落ち着かない性癖を持っているのである。解答としては、たとえば、「感受性はきわめて人間的な、高等な能力である」というものがある。言葉に傷ついて落ち込んだり、絵を眺めて感動したり、人間以外の動物には余りおこりえないではないか、どうやら心ー感受性は、高等な動物にしかみられない複雑な働きを有した、稀有な能力ではないか、ということである。おそらくその通りなのだろう。そして、人間に、なぜ、様々な痛みの原因にもなりえるような、この「心」というものが与えられてあるか、その訳はいまだ充分に解明されてあるとは言いがたいように思う。いまは、だが、感受性や心というものを、わたしは信じていたいと思う。心を豊かに育むことは、ともすれば、心無い現実との葛藤の苦悩をも惹起して、人に苦痛を与えることにもなりかねないのだが、感性はやはり、人間性の枢要な契機であろう。むしろ世は、人間の感性に適合するようにたえず調整され、作り変えられなくてはならないのだと思う。だから、感性のために苦しみ悩む全ての人々よ、自分の痛みを信じよう。むしろ誇らかなものとして、痛みを掲げようではないか。