朱雀の、啼く

文学と、政治と。

受洗を控えて 2

 雪が降り、少しづつ積もってゆく。おそらくパレスチナの地に雪は降らないだろうが、わたしの身勝手な想像の中で、イエス・キリストの十字架は、雪の中に屹立している。純白の雪を染め抜く血飛沫は、我々の罪の深さを証して余りあるだろう。その血飛沫がまた、贖罪をも意味しているということに思いを致す。十字架のイエスというこの両義的存在。ここに世界の、歴史の中心を見据えたいと私は思う。人間は夙に神を、救いを求めながらも、それが現前することに耐えることができず、それを撥ねつけ、殺してしまう。哀れなる人間の本質。有限存在である人間が永遠を包摂することはできない。永遠なるものには、唯、従うことができるだけである。受洗を控えて、喜びと共に、それが、イエスの十字架を共に担うことであることについて、思う。あらゆる嘲弄と悪罵とのなかを歩むことについて思う。恩寵としてのわたしの信仰は、世界に、拮抗しうるだろうか?いつも喜んでいなさい、と、書かれている。自分の十字架を負いながら、笑顔で、刑場までの荊棘の道を歩むことのなかに、救いが存在すると断言するのが、聖書の教えであろうと思う。イエスの弟子たちもまた殉教を果たしている。イエスのようでありなさいということは、我々もまた、世界の罪を担い、犠牲となりなさい、という意味ではないのだろうかと伺われる。犠牲としてのキリスト者の生。おう、と、身震いがする。もしも、愛というものが与えられてあるならば、愛とは、そのような形でしか、この世界では、実現し得ないのではないだろうか。生が犠牲であるとは如何なる事か、もう少し考えてみる必要を感じている。犠牲、贈与、神が与えたもうたように、…与え続けること。