弁証法とはなにか 1

 「こうしん君、弁証法って何なの。よく聞くけど、難しそう」「うん。弁証法は、むずかしいよ。ぼくにもわからない、あんまり」こうしん君はコーヒーを啜りながら、肩を竦めてみせた。「ただ、あんまり、分かっている人は、いないんだよ。だから、とりあえずは、分かるところだけ、整理してみるね。」こうしん君が照れ笑いをうかべてみせた。なんだ、みんな、わからないのに、そんな難しげな言葉を使って見せて、得意になっているんだな。「わからないのにも、理由があるんだよ。というのは、弁証法という言葉を、有名にしたのは、ドイツ観念論の哲学者、ヘーゲル、なんだけれども、ヘーゲル自身、弁証法とはこれだって、明確に定式化した訳では、ないんだ。」

 ふうん。なんだ、はっきり書いておいてくれれば、いいのにね。「そうなんだ。マルクスだって、自分はマルクス主義者じゃないって、言っているんだよ。ヘーゲルも、弁証法なんて、私は知らないよって、嘯いたかも知れないね。弟子たちが、ヘーゲル思想の核心的な原理は、弁証法だっ、て、研究を、したのさ。でも、ヘーゲル自身、自分の原理なんて、よく分からなかったかも、知れないよね。」はっはっはっ。と、こうしん君は、楽しげにわらった。「…そういわれると、ぼくも、自分の、思想の、原理なんて、考えたことがないなあ。」「うん。そう。それにね、渡部君。ぼくは最近、よく思うんだ。人間なんて、そうそういつも、合理的に判断して、活動している訳では、ないよね。むしろ、合理主義者は、自分を動かしている、非合理ないろんな衝動を無視したり、無自覚だったりして、自分は合理的だと、思い込んで安心する、そういう人たちなんじゃないかって。哲学者はいつも哲学的に正しく生きている訳じゃ、ないだろう?彼の思想だって、その成り立ちを支えているものは、いろんな、カオティックで、非合理な衝動かも、知れないさ。思想の原理なんて、自分にとってすら、どこまで真正に捉えられるか、あやしいものだよ。」「うん。じゃあ、大体でいいから、おしえてよ。」「そうだね。少し、乱暴かもしれないけど、以下のようになるよ。」

 弁証法とは一つの原理である。原理とは何かといえば、あらゆる法則がそこから現れてくるところの、最も根本的なロゴス(法則)であるといえるだろう。さて法則といったとき、人間の思考、認識の働きにおける法則と、外界の世界における法則とに大別することが可能である。たとえば物理法則は外界の法則である。また社会において法則と認められているものに、種々の法律がある。医学は人体ならびに精神の法則認識に立脚する。論理の法則の探求は論理学において行われている。ヘーゲルは法の思考に重点をおいた哲学者であった。

 ヘーゲル弁証法は思考法則であると同時に客観的な外界の法則であるとも言われている。人間の認識が外界の法則を真正に把握するためには、思考の法則が外界の法則と同じものに従っていなくてはならない。外界とは別の原理において思考が働いているならば、認識は外界を歪めて映すものにしかならない。それは、外界への恣意的な法則の押し付けにしかならない。思考は対象に従わなくてはならないのだ。思考は世界の法則に従属して、その法則を我がものとしたときに始めて世界についての鏡のような認識を獲得できるという訳である。否、むしろ常に外界も内界も等しく、弁証法という一つの原理に従っている、そのことの自覚が、真理の把握の前提になると言うべきかも知れない。だから弁証法は宇宙についても働いているし、自然においても働いているし、人体においても働いている普遍的な原理でありつつ、それは思考、認識作用においても働いている、真の普遍的原理なのである。マルクスヘーゲル弁証法唯物論的に転倒することで、神秘的な外被に包まれたその合理的な核心を掴み出し、発展させたものといわれている。では弁証法の具体的内容とは何か。弁証法的世界観は、万物を流転の相においてみる。静止・運動の二項対立において運動を常態とし、静止を特殊な状態とする。パルメニデス以前のギリシアの哲学においてはそれが一般的な世界観であった。その代表をなすのがヘラクレイトスの世界観であろう。パルメニデス以後、中世に至るまでは静止の見地が採られた。これは封建的な社会において体制の安定を促すイデオロギーたりえたであろう。しかし、ヘーゲルは流転・運動・変化をこそ世界の原理であるとみなす。若きヘーゲルはドイツにあってフランス大革命に熱狂し、のちにはナポレオンを世界史的英雄として称賛した。革命とは大規模な社会の変化、というより転倒である。マルクスヘーゲル転倒はいわばヘーゲル哲学に対し思想的革命を遂行する企図に出たものと言って良い。ヘーゲルは歴史的変化を目の当たりにして<変化の哲学>を体系的に樹立しようと企てたのであった。運動において働いている原理は何かといえば、それが弁証法なのである。いわれるように弁証法とは、正ー反ー合という三つの契機を持って作用する運動の原理なのである。これは世界の原理が運動であることを意味する。即ち世界とはたえざる変化を生み出す運動を、力をこそ核心として、生きているものなのである。この意味で宇宙とは生命を包摂するひとつの超生命体であるとヘーゲルは看取する。その心臓をなすのが宇宙的な原理としての弁証法である。

 あるものAがある。ということは、それに矛盾対立するBを必然的に生じさせる。AがなければBもないが、BがなければAもまたありえない。Aがあるということは対立するBがあるということだ。そしてこの二者が対立という関係、矛盾という関係に常に既においてあるということ。闘争といってもよい。それは、両者が併存はできないということだ。併存できないにも関わらず、両者の対立関係なくしてはどちらか一方も存在できないのだ。ここに矛盾がある。世界は、森羅万象はそんな風に出来ているとヘーゲルは観ずる。矛盾律というものがある。矛盾は論理的に誤であると退けるものだ。しかしその形式論理的には誤とされるような物象の関係こそ、現実に働いている、力(ピュイッサンス)の正体だとヘーゲルは暴いてみせるのである。つまり矛盾が常態であり、またその矛盾を解消しようとする矛盾と無矛盾との間の矛盾が物事を運動させる。時間というものが働いており、それは刻々止むことがない。矛盾対立とはいずれかが存在として勝利を獲得し、真正な存在として他を排して制圧しようという関係である。結果、一者が残り、存在を獲得する。しかし、AであろうがBであろうが、それは闘争以後の姿に変わり果てている。その変わり果てた姿こそが新たなる存在Cであり、これはAとBとの両者の関係の産物である。これをアウフヘーベンと呼ぶ。そしてCはその誕生から、矛盾対立するDを要請する。以後延々と運動が続くのである。おそらくジェンダーの観点から問題ありとされるからかも知れないが、余り指摘されないのだが、これは男女の交わり、出産をモデルとするとみてそうおかしくはあるまい。即ちセックスを宇宙を貫通する原理の一つの表れとみなしているのかも知れない。ただし、これが二元論にみえるとしても錯覚である。ヘーゲルは一元論としてのキリスト教の思想家であるといいうる。なぜこれが二元ではないのかといえば、併存できないということは、常に一なることが求められているからである。一なるもののために、一から発し一に環帰する円環的ないし螺旋的プロセスのために二者間の葛藤があるのであるから。ヘーゲルにおいてこの<一なるもの>とは即ち絶対者=神に他ならない。全ては神から発し神に帰る、その途上に世界がある。我々の人生があるものと観ずるのがヘーゲル弁証法の世界観である。

 弁証法を構成する幾つかの定式と、マルクスによる唯物論弁証法については、また次回、やろうよ。」

 「うん。ありがとう。よくわからなかったけど。」

 「大丈夫、ぼくもよく、わからないから。」

 こうしん君のアパートを出た。青空から雪が降っていて、少し肌寒いけれど、ぼくは気分が良かった。

                                                           現代詩フォーラムより転載