ドグマテイック・ラデイカル・イデオロギーズ
全否定の試み、きたるべき黎明のための
危機はわたしの属性である(十月の詩ー田村隆一)
1. 「現代詩」は今どんな状況にあるのか。「現代詩手帖」などのバックナンバーを並べて少し眺めてみるなら、いつも「現代詩の危機」「詩の危機」が謂われてきたことにはすぐに気づくことができる。寧ろいつの時代も、詩は危機に瀕していて、そのこと自体が詩の本質に深く関わっているようである。つまり詩とは、何らかの危機に根ざすものである。詩が安泰であれたことなど、かつて一度でもあったか。どんなに典雅な肢体を持ち、篤く王侯の庇護を受けていた時代であっても、美の彫琢の背景には、累々たる死屍が横たわっているものと、私たちは覚悟すべきではないか。
かれの背になだれているもの
2. 危機には諸々の層がある。「心」の危機、「私」の危機、人間の危機、社会の危機、自然の危機、信仰の危機、イデオロギーの危機、理性の危機。もし「現代詩」が危機の隠蔽装置と化しているとしたならば、そのような欺瞞に満ちた温もりは、私たちの求める所ではない。危機の存する所にはまた、私たちの生があり、心がある。詩は宗教と同様に、心の渇いたものにそれを提供することが可能な営為でなくてはなるまい。
活字の置き換えや神様ごっこ
「それが、ぼくたちの古い処方箋だった」と
呟いて……(死んだ男ー鮎川信夫)
3. 文学という装置が失効したとされて久しい。それは、現代詩の自明性が崩壊したことを意味している。私たちは常に、「現代詩」というふうに括弧を付してのみそれについて語りうるのではないか。ネットにも眠り、活字にも眠り。「現代詩」は無人の幽霊街の如くである。根を失い、方向もない言葉たちの戯れを愛でる、諦めきった人々の空疎な慰め。だが、こんな筈ではなかった。これはかつて夢見られたような言葉の自由な表現とはむしろ正反対をなす。言葉の逆ユートピア、「現代詩」。
おかあさん革命は遠く去りました
革命は遠い沙漠の国だけです(毒虫飼育ー黒田喜夫)
4. 制度に依存しない屹立した作品こそその名に値する。詩は優れて制度的な文芸ジャンルであるから。現状、あるのはただ失効した制度の必死の延命措置のみであるかのようにみえる。制度が作品を作っている。だが、本来、作品が制度を作るのではなかったか。
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ(ルカによる福音書ー新共同訳)
5. 美とは、心の故郷への門である。それは、わたしたちの間にあるものだ。
一つの大きな主張が
無限の時の突端に始まり
今もそれが続いているのに
僕らは無数の提案でもって
その主張にむかおうとする
(ああ 傲慢すぎる ホモ・サピエンス 傲
慢すぎる) (祈りー谷川俊太郎)
6. 端的に、「現代詩」を区別するものは、終焉の自覚において書かれているか否かである。この終焉という歴史的出来事への振る舞いの型が、作品の形式を本質的に決定している。そして、最も真正な「現代詩」の作品は、空虚を歌うものである。あるいは絶対的否定性を。全ての叫びはそこからやってくる。
花であることでしか
拮抗できない外部というものが
なければならぬ
花へおしかぶさる重みを
花の形のまま
おしかえす
そのとき花であることは
もはや ひとつの宣言である (花であることー石原吉郎)
7. 危機において、根源的な裂け目において、喜び歌うことができる者はないか。もっともくらい時代の深淵において、「喜んでいなさい」という命令に呼応する歌はないか。「現代詩」の後退戦はいましばらくは続くだろう。私たちを、まだ見ぬ言葉において互いに結束させる、そんな喜びに満ちた勝利の歌を、私たちが獲得する日まで。