朱雀の、啼く

文学と、政治と。

近況

 ジャン=ジャック・ルソー「社会契約論」を読んでいる。読みながら、<民主主義>への情熱が華々しかったであろう当時のフランスについて思いを馳せる。どんな流行も、それが本質的なものに根ざしている場合には世界を動かし、変化させる。そういう生き生きとした歴史のうねりを感じさせる著作というものを私は好む。中学校の歴史の教科書には、民主主義の古典として、ロック、ルソー、モンテスキューの三人が挙げられていたように記憶している。せめてこの三人については、<民主主義>への理解を深める上で、学んでおきたいと今願っている。思えば私の場合、まず現状への懐疑から出発していたので、民主主義という「イデオロギー」の価値の高さを充分には了解し得ていなかったという反省がある。だが、同様に、この国に暮らす、いくたりの人々が、充分な古典的教養に基づいて、<民主主義>というイデオロギーを体得し得ているといえるだろうか、甚だ疑問ではある。勿論、民主主義を問うことは現状を問うことであり、政治的現状を問うことは民主主義を問うことに他ならない。大震災、原発事故の経過もまた、この国の民主主義を鋭く告発している。ルソーには<人民>(peuple)への非常に深い信頼があり、愛がある。人民をほとんど神秘的存在に祭り上げているかのような感触もない訳ではない。そこで思うのは、やはり「救済」というキリスト教的なモチーフである。キリスト教に対するルソーの態度は両義的であるが、人民を神格化したうえでの自己救済の歴史というようなものを構想していたのではないか、その意味におけるヒューマニズムの思想家がルソーではないか、という直観を受ける。そのような立場の歴史的意義は了解しつつ、しかし私自身としては、そのような希望を、たんなるヒューマニズムとして持つことは、今はない。ルソーとキリスト教との、外面的・内面的関係はどんなものであったか、いささか興味深い所ではある。

 歴史的変化を遂行する勢力の、その変化への意思を裏付けるものが、たんなる個人的な恣意であってはならないのは当然なことであって、何らかの変化の必然性を背骨として初めて、変化は正当化されうるのだということを思う。カール・マルクスは「歴史的必然性」のためにそのいわゆる「唯物史観」を発見し提唱したのだし、ルソーのような啓蒙思想家にとっては「理性」がそれであったろう。本質的な変化は常に犠牲を伴う。そして一方で未完成状態=歴史的状態にある社会は、変化せずに循環している場合においても、やはり「犠牲」を伴っている。貧困、差別、自殺、その他、あらゆる負の社会的事象は、一定の状態における社会の運営が齎す犠牲に他ならない。社会の持続のために犠牲を極限まで零に近づけてゆくことが、たえざる社会変革の目的でなくてはならないし、その終局的な完成形態=理念が、「平等」にあることは論をまたない。ホッブズのような万人闘争説に対して、ルソーは自然状態における人間相互の平和をこそ強調している。戦争状態は人間相互から、人間的本質から生じるのではなく、人の扱う物事から生じるものと書いている。つまり人間にとって外的なものが、戦争を招くというのである。私自身はもっと若い時ならば、万人闘争説に共感を持ったように思うが、今ではやはりこの論点においてルソーに共鳴する。何より言説のパフォーマティヴな意義に着目した時、万人闘争説が、真の平和を齎すことはできないからだ。せいぜいそれを通して実現されるのは、不信の平和であり、偽の平和であろうということだ。とはいえ、ホッブスについてすら私は猶、概観を得ていない。興味深い点なので、掘り下げてみたい所である。たとえばホッブスの人間観の中心をなすのは欲望の無限性であるが、「無限なる欲望」は、「無限の欲望」則ち「無限を欲望すること」と読み替えるならば、それは「神を欲望すること」となり、自己神格化の不可能性をへての「神への無限の従順」へと連絡しうるような気がする。欲望と理性の関係、欲望と信仰の関係についての精神分析的な理論とも関わってくる点である。

 民主主義と利権、といったトピックを立てるならば、私自身はやはり、ルソーらが構想したような民主主義は、けして理念を実現し得ないが、理念を実現させるための過渡的形態であって、過渡的形態ゆえに、利権との癒着のような不純物・夾雑物を、完全には排除し得ない、むしろそこにこそ「民主主義」の「民主主義」たるゆえんが存在するというように思われてならない。この不純物は過渡的形態の本質をなすということだ。平和、平等、自由、友愛を、真に実りあるものにする為には、政治制度の変革のみならず、経済的社会そのものが変容しなくてはならないと感じる。おそらく民主主義と利権の癒着は、遠くギリシアの民主制においても同様であったろうと推測する。この側面からいうならばルソーもモンテスキューも、「理論家」の枠は超えていないのであり、空想的なユートピアンとしての性格が認められるといいうるかも知れない。 (続)