目的論について

 ポストモダニズムの興隆以降の目的論の否定の論調の弊害は、実に大きなものである。宗教批判の歴史的な核心は、ここにこそ存するとさえいいうるかも知れない。感動、という精神的・身体的現象は、瞬時的な脳への刺激に歪曲・還元される。だが実際は、これは、感ー動という変化を引き起こす手段に過ぎないのだ。

 プロレタリア芸術ー社会主義リアリズムが歴史的に提起した「プロパガンダ」の方法に関する諸問題は、ごく表層的な「洗脳」「マインドコントロール」の方法という問題意識から脱却し、より深められる必要がある。芸術は、深く広汎で精神的なプロパガンダ以外ではなく、美を手段とする政治という戯れにほかならないのだ。ただし、信仰と一致した厳粛な戯れである。この点で、バタイユメルロー・ポンティの、コミュニカシオン乃至コミュニオンをめぐる思想は、益する所がおおいように感じている。

 美が、快楽=脳への刺激に誤って還元される時、芸術の威信は失墜させられざるを得ないであろう。それは麻薬を始めとする、外的な技術による興奮状態の生成に、席を譲る他ないのである。そのようなテクネーは、今後、益々発展を示すであろう。しかし、それは断じて「芸術」であってはならない。同じことは学術的な「教養」についても指摘しうる。方向ー意味ー感動、のモメントを欠いた知的刺激、興奮状態の追究は、結局、人間の、刺激ー快楽への、飽かざる無限の欲求の一形態をなすに過ぎない。それは、感ー動にとって手段的なものを崇拝する倒錯であり、偶像崇拝フェチシズムへの退行に他ならないということだ。

 「心」という共同的現象の意味に、立ち帰る必要を、痛切に感じている所である。