朱雀の、啼く

文学と、政治と。

イデオロギーについての雑感

 バイアスとイデオロギーは異なる。バイアスは先入観、偏りを意味する。先入観とは、真理を覆い隠す誤った前提的知識の謂であろう。だがどんな知識も、何らかの先入観から始まるのであり、真理は直接に獲得できず、知識の深化の果てに想定されうるような何かである。そして、人間の様々な条件や、政治的立場からきたる偏りのない知識は存在しない。どんなに偏りを克服しようと努力するにせよ、人間は真理のさまざまな影や、その表情の一側面を知るところがせいぜいであろう。真理の中立性は理想というより幻想である。真理を絶対者とおくならば、絶対者は断じて中立ではない。罪を裁く唯一の権限は神に帰せられるのである。イデオロギーとは世界観である。世界観とは世界についての体系的な知識である。イデオロギーから離れた知識とは従って、世界について、非体系的な、矛盾混乱した知識をしか持っていないことになる。既成のイデオロギーからどんなにか遠く離れた所で、自分の知識を拡充整理し、体系的な秩序をそれに与えることができた時点で、それはその人独自のイデオロギーを獲得したことを意味するに過ぎない。世界観が体系的でなくてはならない訳は、世界を構成する諸事象が体系をなしていると考えられるからである。体系とは諸事象の関係の統一体である。世界が断片的で互いに無関係な事象によって構成されているならば、それは「世界」という統一概念で捉えることは適切ではないということである。ではなぜイデオロギーとバイアスは同一視されるのか。それは、世界についての真理というべき体系的な知識を得ることの困難のためでしかない。つまり世界は常に人間の世界観を凌ぎ、人間の世界観より大きく、それを含み、世界観をすら利用して営まれているからだ。では不可知論に立ち、我々は世界観を放棄断念すべきか。いうまでもなく、非体系的、断片的な知識の寄せ集めが、イデオロギーより多く世界についての真理を含むことを証明することは困難であろう。断片的な知識が真を穿つことはありうるが、その真理が真に生かされるためには、断片的真理が有機的に結合される必要がある。そのあるべき結合を可能にするものは何か。それが世界についての体系知であり、イデオロギーである。イデオロギーは政治性とともに言及され、虚偽意識として科学と対立的に用いられることもおおい。なぜそうなるのか。いうまでもなく、体系的なる世界において政治が重要な要素であるからだ。世界観が政治的意志と立場とを含まないならば、世界には政治が含まれないことを意味してしまうだろう。イデオロギーが虚偽とされる理由は、上述したように、世界を余す所なく組みつくした世界観は存在したことがないし、おそらくは存在できないため、常に世界観は錯誤へと導かれるからだ。繰り返すが、イデオロギーから離れれば世界をくみつくした認識が得られることを意味しない。その試みは、つきつめるならば、また別のイデオロギーを産出するということだ。では、科学との対立についてはどうか。世界科学という学問領域は存在しないが、諸領域における発見された真理を統一的に理解し、体系性を与える試みは哲学が担ってきた。しかし、それが世界をくみつくしたことはないし、今後もないだろう。世界はつねに世界観を含みつつ営まれるからである。世界観の科学としての哲学がどんなに説得力を有しても、それもやはりイデオロギーなのである。哲学的な吟味をへていないたんなる科学性の信奉は、科学主義というイデオロギーないし科学教という宗教である。これは一領域におけるにすぎぬ部分的な科学的事実を不当に世界という全体にまで拡張する擬似科学とも呼びうる。イデオロギーを断念することは世界についての体系的知識を与えない。イデオロギーを断念することは世界を断念することを意味する。世界とはしかし私自身であり、あなた自身なのだ。世界を断念することは、己れを断念することを意味する。世界観がイデオロギーとして常に錯誤を含むことは、むしろ、イデオロギー同士の折衝と、統一的なイデオロギーの形成共有へと我々を導く、大きな可能性の存在の証左でもありうのである。真理としてのイデオロギーの探求は、世界観の共有と分かちがたいように思われる。科学とイデオロギーの統一こそが、ひとつの個人的課題であるといいうるかもしれない。