随 想 1

 

・講師資格試験の対策準備会に県委員会事務所へ赴く。参加者6名。前年までの出題を例に回答の要点の解説を受ける。

・綱領は現在の日本政治の主要問題として、アメリカと大企業という二つの政治的実体に日本政治が重い規定を受けている事実を指摘している。換言すれば、外国からの力と、国内の一部の階級の力が、本来の日本が国家として発揮できる政治力とその方向性を歪めて、あるいはマイナスの方向に導いているという認識である。言わば「典型的な資本主義国家」ならば、その政治的意志と力とを規定しているのは、ブルジョワジーの階級的意志と力であると考察できるが、日本の場合は、欧米の一般例に比して、世界の資本主義の宗主国であるアメリカ合衆国の政策に従属しなくてはならない事情が、偶然的なものではなく、歴史的な構造的必然性を有している。

史的唯物論唯物論的歴史理論)に立脚した階級国家理論を、単純素朴で古色蒼然たるものと誤解している人々も少なくないだろうが、時代の緊迫に従い、以前よりは、ブルジョワ国家理論のヴァリアシオン(変種)でしかない、ポストモダン風の政治論の空虚さが広く了解されるようになり、階級支配の道具としての国家というマルクス主義国家観が時代を超えた普遍的真理の一つであったことが、改めて反省されるような傾向が生じてきたように思える。だが、戦後の様々な理論的努力の肯定的な遺産を、この科学的社会主義の諸理論のなかに、あるいはその橋渡しとして、生かしていくように考えていく努力もまた時代的要請であって、単純にレーニンに回帰すべきでは断じてないだろう。

 ・関係的実体としての「資本(capital)」という認識が自分にとって不徹底であることが反省される。「関係的実体」とは、人間の相互の意識的な関係性の産物としての主体であり、むしろ「関係的主体」と呼称するのが適切であるかもしれない。たとえば人間の意識の産物である「幻想」が、人間の意識によるコントロールから独立に意志と主体への強制力とを有するに至るのがある種の精神病者の「病」であるように、貨幣や商品が「人間の意識からは独立な」客観的社会的関係性において、「資本」という実体性=主体性を有するに至り、反転して人間を客体として、主と奴の弁証法ヘーゲル)における主として作用する。その意味では資本主義世界に完全に適応した人間は、病者に近い意識状態にあるのではないかと私は感じている。この意味では、観念的な「関係的主体」である資本が支配する商品世界に包摂される物質世界という世界構造は、観念論的現実であり、「社会的現実が意識を規定する」という意識を持つ人間個体の意識や精神は、唯物論的である。意識の産物、つまり意識が一定の「物質性」を生むというこの関係的意識の構造は、おそらく、「言語」の存在論と形式的に相似している。