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随 想 4  (歴史的必然性と未来)

未来社会論学習の前段として)

 

 「未来社会論」は日本において、「民主主義革命論」とは連関のうちに一定の区別を置き、「社会主義共産主義」社会論の呼称として用いられる。「社会主義共産主義」とは、分配方式の区別を中心とした伝統的なマルクスレーニン主義の二段階論(資本主義から社会主義へ、社会主義から共産主義へ)を批判的に剔抉し、一括して理論的に取り扱うべきであるという日本共産党の独自の比較的新鮮な立場を反映したものである。日本では戦前から共産党は、民主主義革命を第一の任務と規定し現在に至るが、この民主主義革命の成立過程を経ても直ちに日本社会が「未来社会」に突入するとは言えない。ここでいう「民主主義」はあくまでも「資本主義の枠内での」所謂「体制内変革」だからである。それが未来社会と呼称すべき「社会主義共産主義」社会に移行するためには、資本主義の善き遺産は全面的に余す所なく承継しつつも、やはり現行のような資本主義的生産様式は質的に転換され、経済的社会構成体として、資本主義が没落・廃棄(アウフヘーベン)される必要がある。

 不破哲三によってスターリン以来の「資本主義の全般的危機論」は理論的に超克されたが、この際に「歴史的必然性」の論理が若干弱められたのではないかという疑念を持つが、未来を歴史的必然性の貫徹した確固とした論理によって把握することは、理論的・綱領的確信を胸に日々の取り組みにあたるためにも、そのなかで活動の喜びを実感するためにも大切であろうと思う。資本主義が世界体制として今日明日に没落するような危機にはなかったとしても、遅かれ早かれ、自覚的な党と圧倒的多数の人民との取り組み(革命運動)によって、必然的に、すなわち100%の絶対的現実性を持ってーより仔細に言うならばこの絶対性は相対的絶対性だがー資本主義は没落し、未来社会が実現する。

そこで、「二つの未来」について試みに考えてみたい。

通俗的(SF的?)未来とは資本主義の延長つまり量的拡大、発展であり、これは形式論理的(カント的)未来であり、科学的社会主義の未来観、未来概念とは異質なものとして対立する。科学的社会主義弁証法的未来とは、資本主義が否定的媒介によって質的に転換した未来である。通俗的未来をブルジョワ的未来像と指示することも可能だろうが、プロレタリアートの未来は、現在の延長ではない。現在の延長とはあくまでも現在の範疇に属する時間であるが、未来が未来たる所以は、それが現在とは質的に区別される所にあると言える。量的発展が質的転換に移行するために必要な飛躍を、私たちは革命と呼称すべきではないだろうか。単なる現在の量的発展としての未来では、いかに科学や経済活動上の技術が進歩していようとも、そこで社会的・人類的矛盾は、激越に亢進し、弁証法的・質的に否定される事を求めているのである。