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旧ブログより

 

・主題論とは目的論でもある。だがテクストの完結性とは、一定の制限内におけるそれだ。現実は常にテクストと共在しており、テクストの存在しない現実世界は存在しないから。それは想像力も人間に与えられた重要な機能であり、想像力が全く欠如した人間は、健康な状態とは言い得ないことと同じ意味において言いうる事柄である。

・共通目的と主題の共有。我々は常に何らかの他者「に向けて」発話し、また、生活している。これは単独な人間においてもそうであり、意識が常に何者かに向けての意識としてしかありえない(フッサール)ことと連関している。対自が同時に対他であるような意識構造はまた、存在構造でもある。意識と存在とは同一構造をなしてこそ真であるからである。

 

cahier 1403.2

・何度でも繰り返し書かなくてはならないならば、何度でも繰り返し書けばよい。ポストモダンの批判が困難なことは、本来、我々が批判すべきなのが「モダン=近代性」であって、ポストモダンは挫折した批判を乗り越えようとして挫折した批判であるという事情から来ている。この期に及んでは私は、正面から再びモダンなるもの、その歴史的限界を批判対象としなくてはならないのだろう。その近代性とは結局の所、資本制に基づく世界構造であり、その上部構造としてのモダニスムの文化である。ではその批判の立脚点はどこに求められるのか。過去ではなく、未来でもなく、永遠性としての本質である。資本制は一つの擬制ーーー本質からの「疎外」であるから、その批判の立脚する場所は、本質性であり、否定の否定としての、止揚された本質としての共産主義であるだろう。資本制が主敵であるということは当然乍ら、敵は複数的なる関係そのものであることを意味する。この関係構造の一定の全体性こそ主敵の実体なのである。なるほど、敵が関係性そのものである事が判別されたとして、そこに我々はいかにして対抗し凌駕する事で、より豊かで人間的な文明を創出する事が可能なのか?関係性には関係性で対抗しなくてはならない、だから我々はまたありうべき連帯を求め、政党、労働組合、協同組合、地域共同体、職場、家族、学校、あらゆる共同性の場に、対抗的なる関係性に基づいた連帯性による共闘を実現していかなくてはならないのである。危機は好機でもある。日本が歪んだファシズムと独占、過去の修正と忘却、近隣諸国との歴史的また領土的な軋轢の中にあるこの現在こそ、倫理的な経済に立脚したあるべき民主主義のために、各人の自然な本質性が自由に開花した未来のために、立ち上がり、発話しなくてはならない。人間的なその肉声で。

吉本隆明が追いかけた「大衆の原像」なるものが、理念的現実ともいうべき対象Xであったことは容易に見て取れる。つまり理念と実在的なものとの止揚態としての大衆のイメージである。そこで問題になるのは、「マス・イメージ」の概念と「大衆の原像」との同一性と差異であろうが、大衆というものの変幻自在な生態は、おそらく概念とポエジーとの本質的な虚体(埴谷雄高)としての存在様態を吉本をして連想させたであろう。

 

旧ブログ  "u"    


u | un journal japonais pour la religion de La Croix ou la litterature nouvelle

8.30 アートandピース for GAZA 配布資料

いま、ガザで起こっていること

2014年7月8日、イスラエル国防軍パレスチナ自治区ガザ地区への軍事攻撃を本格的に開始しました。7月17日にはイスラエル軍による地上侵攻も開始され、8月25日現在で2120人に及ぶパレスチナ人が殺害され、1万人を超える重軽傷者が発生しています。イスラエル側の死者は68人、その殆どが兵士です。これは、これまでのイスラエルによる「ガザ侵攻」の中で、最大規模の攻撃です。パレスチナの子どもの被害は、500人に上る死亡、約3000人の重軽傷者が発生しており、避難先の学校も砲撃を受け、50万人の子どもが新学期を迎えられない状況に追い込まれています。発電所や水道といった、生活に不可欠な施設も破壊され、一日に2,3時間しか電気は使用できず、住民の半数以上は飲料水もなく、下水道もストップしている劣悪な環境のなかで、空爆から必死で逃げ惑う日々を強いられています。

被害状況

ガザ地区イスラエルからもエジプトからも、現在入国が制限されており、地区全体が密室状態に置かれています。しかし国連機関や人権団体、報道スタッフなどが現地情報を基礎に、被害状況を報告しています。学校などに避難している住民は23万8000人(8/20)にのぼり、学校だけでなく、病院も攻撃対象となり、救急車が標的として爆破された例も、現地の医師が報告。およそ広島型原爆と同量の爆発物が、空から、海から、地上から、ガザ地区に投入され、およそ10万人が住む家を破壊されました。

インフラや建造物だけでも、復興に少なくとも15年を要するとUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)は発表。当初は空爆だけだったイスラエルの攻撃方法も、地上戦の開始とともに被害は急増。住民にたいして避難勧告のビラを散布しているとはいえ、密室状態のため、どこにも安全な逃げ場はありません。ヒューマンライツウオッチや、アムネスティ・インターナショナル等の人権団体は、イスラエルによって重大な戦争犯罪が行われていると批判しています。そのため、「イスラエルによる大量虐殺(ホロコースト)」であると指摘する論者も少なくありません。

原因は?

ガザ地区イスラエルによる侵攻を受けたのは、これが初めてではありません。2006年6月、また2008〜2009年にもイスラエルガザ地区を侵攻しました。この背景には、イスラエルの「入植地」問題があります。今回の侵攻開始の直接のきっかけと言われる「二つの殺人事件」の背景にある「ユダヤ人入植地問題」が、侵攻の大きな要因をなしています。

イスラエルの「入植地」

パレスチナ自治区パレスチナ国)は、ヨルダン川西岸地区とガザ地区とによって構成され、両者はイスラエルの領土によって分断されています。パレスチナは固有の大統領を持ち、政府や官僚機構、警察を持っており、国際連合では現在、「国家としてのオブザーバー」の地位にあります。正式な加盟申請は、アメリカなど少数の反対で阻止されていますが、世界の134カ国が、パレスチナを「国家」として承認しています。パレスチナ自治区の領域は基本的には1993年のオスロ合意により定められましたが、その後も、パレスチナ自治区の領内へのユダヤ人(イスラエル人)の入植は続いていました。入植地とは、イスラエルの領土拡大を目的として武装したユダヤ人が、パレスチナ自治区内に侵入し、土地を有刺鉄線などで囲み込んで住み着いたものです。公的にはイスラエル政府は入植を禁止していますが、政治的に突出した活動家が入植を行い、その安全を守るためと称して、イスラエル軍は入植地を実質的にイスラエル領として保護します。自治区とはいっても、広大な土地が合意に反してイスラエル側によって占領され、そこに団地までが立てられ、パレスチナ人を追い出しているのが現実なのです。この「入植地」の取り扱いが、パレスチナイスラエルの間の紛争の火種になってきました。和平交渉も入植地の扱いが何度も問題になりました。イスラエル軍による「占領地」や入植者による「入植地」として、パレスチナに約束されていた土地は完全に返還される所か、逆にユダヤ人によって浸食される過程にあるのです。

この入植地のユダヤ人の少年三人が6月12日に行方不明となりました。イスラエル政府はこれをガザ地区を実質的に支配しているイスラーム主義政党「ハマース」による犯行と断定、6月29日までにヨルダン川西岸地区でパレスチナ人10名を殺害、多数の議員を含む400名以上を逮捕しました。6月30日にはユダヤ人少年三人の遺体が発見されたと報道され、翌日にはエルサレムで報復とみられるパレスチナ少年の焼死体が発見されました。7月2日、このパレスチナ少年の葬儀に参列した数千人のパレスチナ人イスラエル治安部隊が衝突、多数の逮捕者と負傷者が発生。この間、ハマースは断続的にイスラエル側にロケット砲攻撃を加え、7月8日、イスラエルガザ地区への本格的な空襲を開始しました。

背景に「暫定統一政府」への焦り

2007年以来、パレスチナヨルダン川西岸を拠点とする「ファタハ」とガザ地区実効支配する「ハマース」による分裂状態が続いていましたが、2014年6月、暫定統一政府が樹立され、分裂が解消されました。ただちにイスラエル政府はこれを、パレスチナによる和平の放棄と宣言し、パレスチナ自治区への制裁を開始、ガザ地区空爆しました。この経緯から、今回のガザ侵攻にとって「二つの殺人事件」は契機や方便に過ぎず、本質は暫定統一政府の成立に脅威を感じたイスラエルからの一方的な軍事攻撃にあると言えます。

また、ガザ地区と地続きのエジプトでは、「アラブの春」といわれた民主化運動以降、動乱が続いていました。長くエジプトは親イスラエル的な立場を取り、ガザ地区イスラエルによる閉鎖に協力してきましたが、2013年のクーデターをへて、2014年6月に軍人のシーシーが大統領に就任。イスラエル政府を支持し、パレスチナ国境の閉鎖を継続した事も、イスラエル政府が非人道的な軍事攻撃に踏み切った背景をなしています。

パレスチナの「防護壁」

パレスチナ自治政府の領域である「ガザ地区」と「ヨルダン川西岸地区」は、ちょうど旧ドイツが「ベルリンの壁」で分けられていたように、イスラエルが建造した長大な「防護壁」(分離壁アパルトヘイト壁)に囲まれて、出入りがイスラエルによって制限、管理されています。その目的は(1)植民地(イスラエル領)を更に拡大するためにパレスチナの土地を没収し、境界線を引きなおし、(2)パレスチナ人が自分たちの土地で生計を立てる事を出来なくし、十分な水資源を与えず、行動の自由を制限して街や村への居住を不可能にして、パレスチナ人を追い出していくことにあると指摘されています。

ガザ地区は隣接するイスラエルからもエジプトからも出入りを厳しく管理され、支援物資の搬入や外国人支援者の立ち入りも制限されています。海も空もイスラエルの管理下にあり、いわば地区全体が「収容所」のような状態です。今回のガザ侵攻の期間、イスラエル政府は支援物資の搬入については人道的措置として許可しましたが、これは国際世論の批判に配慮したものと言われています。

住民の要求

パレスチナ側はイスラエルとの停戦交渉で、以下のような要求を行いました。①イスラエル軍の攻撃停止とガザからの撤収②経済封鎖解除と境界検問所の開放③ガザ再建用の物資確保④ガザ空港の再建と港湾建設。ガザ地区では人と物資の出入りが制限されているだけでなく、イスラエルによる経済制裁によって、地域経済が深刻な状況にあり、失業率は80%。150万人が暮らしていますが、100万人以上が難民として認定されており、1日1ドル以下で暮らす貧困層が85%。子どもたちの栄養失調も深刻です。8カ所ある難民キャンプは「世界最高の人口密度」と言われています。水道も電気も不足し、またイスラエルによって管理されているため、ガザ住民は人間として最低限度の生活のために、まず生活環境を成り立たせなくてはなりません。停戦交渉の要求はそのために必要不可欠な条件だったと言えるでしょう。

世界の反対運動

今回のイスラエルによるガザ侵攻に対して、国籍や人種や宗教の違いを超えて、世界中の有志が反対のために立ち上がりました。しかし日本のメディアはごく小さな扱いしかできておらず、猛烈な世界の反対の声を報道しているとはいえません。アメリカでもヨーロッパでも、ユダヤ人自身が、ガザの攻撃とシオニズムに反対を表明しました。日本でもアメリカでも、ユダヤ教プロテスタントカトリック、仏教、イスラム教といった様々な宗教指導者が手を携えてイスラエル政府を非難しました。10万人規模の市民集会やデモンストレーションが繰り返され、その様子は主にインターネットで互いに共有されました。このような国際世論の反対の声に押されて、アメリカとイスラエルは孤立を深めていると言えます。しかし、日本政府はイスラエル政府との関係を強化し、日本製の武器をアメリカを媒介にイスラエルに輸出する可能性も指摘されています。その場合、三菱重工業が製造しているパトリオットなどの兵器が、パレスチナ市民を殺害するために使用される懸念があり、日本政府の軍事路線(武器輸出新原則、集団的自衛権行使、憲法改悪など)への私たちの反対の意志が、パレスチナ市民のいのちと暮らしの安全に、またパレスチナの未来に、直結していると言えるでしょう。

〈参考文献〉

「世界史のなかのパレスチナ問題」 臼杵陽、講談社、2014

「文化と抵抗」 エドワード・W・サイード、筑摩書房、2008

「覇権か、生存か —アメリカの世界戦略と人類の未来」 ノーム・チョムスキー集英社、2004

イラクパレスチナ アメリカの戦略」 田中宇、光文社、2003                                                                               etc.

しんぶん赤旗  http://www.jcp.or.jp/akahata/

パレスチナ情報センター  http://palestine-heiwa.org

土井敏邦オンライン  http://doi-toshikuni.net/j/index.html

                                                                                                                                                         (渡部唯人・記)

 

  •  5 SEPTEMBRE 2014
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小論理学をよむ

p14 

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...一般に精神の力は非常に勢いを得、今ではただ理念理念に叶ったものだけが自己を維持しえ、なにものかが行われようとすれば、それは洞察と思想の前に自己の証しを立てなければならない程である。…精神の倫理的な力がその溢れる力を感じ、自己の旗を掲げ、そしてこのような感情をして現実の支配力としているのである。我々は、我々の時代が、そのうちにあらゆる法律、道徳および宗教が集中されている所の、このような感情のうちに生活し、行動し、活動してきたことを限りなく尊いこととして評価しなくてはならない。

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さて、この文章のなかで特に言い添えなくてはならないのは、「倫理」という思想の位置づけである。現代人は倫理というと、何かしら選択的なもの、他の様々な基準のなかで余り意味のないもの、従っても従わなくてもよいもの、そういう軽い位置を日常的に与えがちであるように思われるからだ。だが倫理とは、人間の内的また外的な生にとって本質的かつ最高の基準であることを了解されたい。打算、利害、効率、合理性、結果のイメージ、実現可能性、手段、、実に様々な概念が我々の判断と行動の基準として秤量されるが、それらを最終的に統合し、決断を与えるものが倫理である。精神の力とは倫理的な力であるとここでは等値されており、精神が精神たるゆえんもまた、倫理的な思想や判断力の有無にあることが含意されている。留意すべきは、倫理と論理の関係である。近代の合理主義は一種の合理性に最高の価値を与えてきた。だが、合理性と一口に言っても、様々な合理性が並存しうるとみなすのが合理的である。理に合う、とするその理、とは何か。この事は、「精神」との関係において、ヘーゲルが何度も後述する所である。


精神と理性、倫理性
倫理的な判断力
倫理への批判のさまざまなもの
ヘーゲルの倫理とレヴィナスの倫理
カントの倫理
倫理と自由
倫理的な自由、倫理としての自由

  •  16 JUIN 2014
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自由のために pour une liberté 

 

・聖書には刺激的な記述が余りない。内容として悲惨な挿話は数多くあるが、扇情的な叙述は行わない。私たちの散文における表現様式は歴史的に発明されてきたものであり、そのような叙述方法が、聖書編纂当時はまだ広く行われていなかった事情は当然あるとしても、ギリシアにおける文芸の発達を見れば、意図的に選ばれた叙述様式であると考えてそう無理はないだろう。すなわち、そのようなスタイルのなかに思想がある。教えが存するとみなすべきなのである。

・論理的な整合性というものは、それ自体としては、何らその意味する内容が正しいものであることを意味しない。無矛盾な記述が間違っている事もあれば、矛盾ある表現が真であることもありうる。

 

・安易な正義や真理の批判には与し得ない。それは単に破壊的なだけのテロリズムのようなもので、怨恨の解消が動機になっているに過ぎぬ場合が多い。人間主義批判もまた同様である。それが善であれ必要悪であれ、人間の生活は一定の社会秩序のなかで生きられている。それが人間の生存にとって不可欠であることは自明であり、法も倫理も、正義や真理の理念を持たずには樹立される事も実現されることもできないのである。必要なのは正義や真理や人間の理念の内容を知り、その歴史的な限界は刷新し、それを現在の社会の中で、現在的な方法によって稔らせていくことである。

 

  •  17 JUIN 2014
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  • 1

 

 

cahiers 05102014 

Pier Paolo Pasolini、Decameron 1971  視聴する。

イタリアの名匠、ピエル・パオロ・パゾリーニユーロコミュニズムの論客であり、映画監督だけではない。詩人、小説家としても優れた才能を発揮した。謎に満ちた非業の死を遂げる。私は暗殺説の信憑性が高いと見做している。

冷戦下、スチューデントパワーの熱気醒めやらない当時と現在では共産主義や政治的社会的情勢は大きく異なっているように見えるが、原理的な骨格は何ら変わらずにその循環運動が反復されているとも言える。

パゾリーニ共産主義に見出だしたものは何だったろうか?少なくとも作品から推測できる彼なりの共産主義には、通俗的な意味での反宗教も科学主義も片鱗たりとも感じられない。そこに光り輝いているのは、素朴な民衆性への愛であり、善悪を包括するような彼岸にあって、人間の生を高らかに謳歌すべき欲求であり意志である。人間が素朴で輝かしい笑顔、嬌声を交わしながら満たされて生きる世界こそ、共産主義の理想としての生き生きとした幸福な世界ではないか。だが、翻って現代の資本主義世界、その一環をなす日本社会の情勢は暗く、その暗さに耐えきれぬ惰弱なる精神たちが暗さを明るさであると欺瞞的に嘯いたような言説が支配的な雰囲気を構成している。

「情勢として」世界資本主義はその本質性を露骨に顕現させ、各地で紛争を頻発させ、人種や民族、国民の間に峻烈な格差と対立を煽動しているが故に、今この日本でも共産党への期待の亢進は留まる所を知らない。だが何が私を共産主義の世界観乃至イデオロギーへと向かわせているのか、それは私が辿ってきた曲折に満ちた人生の道が然らしめるという他にない。

実はこの根拠への反省はイデオロギー論にも深く関わる所である。というのは、良心や理念そのものは、イデオロギーを通じて信奉する世界観へと逢着するのであって、従って世界観の根拠は経験的/社会的な段階にこそ求められるべきだからである。

では情勢とは何か。そこから語り始めなくてはならないし、何故情勢から考えなくてはならないのかも聊か説明を要するのが本来。常識的であった様々な「約束事」が形骸化したり、忘れられるようになり久しい。世界情勢、日本情勢、「状況」。「常識的であった」?そんな常識がしかし存在したのだろうか、自問する。それは私が過去に投射した願望としての基準に過ぎないかも知れない。人は基準とされるべきもの、準拠すべき何かをどうしても求めるが、その不在こそ改めて捉え返されなくてはならない。それはペシミズムではない。最早、「ポストモダン」な決定不能性に滞留すべき季節は過ぎ去ったのだと言わなくてはならないだろうからだ。弛緩した関係性の強調(「絆」?)に対しては、孤立をこそ高く掲げるべき筈ではなかったか。耳を澄ませたい。銃声と爆発音が振動させる空気に、現実という旋律に清く耳を澄ませたいと思う。見えているもの、聞こえているものを様々な仮象がオブラートに包んでいる。時にその優しい嘘は「日常生活というイデオロギー」「現代詩という欺瞞的純粋性」etc.…どこにも手放しで「準拠しうる」現実などありはしないが、それは神との隔たりと同じ意味をなしている。形而上学的現実性とでも呼ぼうか。現実なら他に幾らでもある。資本主義的現実性、学問的現実性、マスメディア的現実性…それでも私は「自己の現実」を判断しつつ、共有可能性に配慮を続けなくてはならない。ここでは独我論批判でさえ空疎である。情勢論は原理論との関係において初めて意味を持ちうるのだということ。原理論とは、ここでは国家、社会、政治、こういうものがどんな論理に基づいて運動しなくてはならない必然性を有しているかを明らかにするための方法論であり、その結果得られる法則性についての論理であると言う事が可能である。しかしここで問題にしたいのは情勢論の内容ではなく、寧ろ主体と情勢との関係性についての若干の事柄である。

情勢論、ヘーゲル精神現象学、小論理学、マルクスエンゲルス全集

経済情勢論、現代資本主義論、文学論、現代詩論、表現論、芸術論

 

  •  10 MAI 2014
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