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徴兵制が日本に実現されるかどうかは、無論まだ分からない。共産党はそれを徹底的に阻止するために活動するのは勿論だが、自民党のなかには徴兵制の実現を目指して公言して憚らない政治家がおり、党内で権力を獲得しているのは、明らかな事実である。
だが本当の所、平和に慣れた日本人には徴兵といってもピンと来ないし、自分からは遠い出来事のように思えるのは、ある意味で自然なことである。また、徴兵制でなく、自衛隊の人々ならば、戦争に加担するのを許容していいのか、という問題もまた一つ、存在する。
さて、徴兵ということになった時に、どんなことが起こるのか、一時、想像して頂きたい。戦場で、銃弾や爆弾の飛び交う最前列に駆り出されるのは、どんな人々なのか。いやな言い方だが、学歴のある者は相応の事務的、後方の活動が充てられるだろうし、資産のある者は、資産を用いてあの手この手で兵役を逃れようとするだろう。最前列に立たされて、弾除けにされるのは、悲しい話だが、学歴のない者や、肉体労働に従事していた者や、身体だけが取り柄で、金も持っていない庶民なのである。
そして、それは交戦する敵国の軍隊も同じである。自分たちに銃を向けて、最前列で殺し合いをするのは、相手の国の、金や地位や学歴のない、弱い庶民である。弱い者同士に殺し合いをさせて、強いもの、金のある者や地位のある者は、安全な後方で、平和な暮らしを営み、野蛮な殺し合いを笑いさえするのだ。
想像力を持とう。
自分や自分の子供にさせたくないことは、他人にも、させてはいけない。それだけが、そのための努力だけが、社会を本当の意味で、より良いものに変革していく。

ブルーハーツが歌っていたような、

 

弱い者たちが夕暮れ
さらに弱い者を叩く

 

そういう殺し合いを操作して、安全な所で平和に暮らしている者たちに反対して、憲法を守るために、私たちは声を挙げるべきではないでしょうか。

 

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詩人というのはその作品によって、多かれ少なかれ、宗教的な性格を持つ。詩や芸術作品が読者との間で発生させるあるエモーションや経験は、宗教のそれに極めて近い。だから詩人が勘違いをして一種の霊媒を気取ったり、その崇拝者を集めて宗教的な権威を振り回すのも、今に限ったことではないが、問題はその危険に無自覚に、詩人と読者の関係性が無意識のカルトになってしまう所にもあるだろう。当人は読者を善導しているつもりで、実は読者を破滅に導いている危険はないのか。自分では天使を気取りながら、本性は悪魔だった、ただ自分では気づいていなかった、などという事態ともなれば、救いようがあるまい。表現者に厳しい倫理性が求められる所以である。

 

 

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駅前の大型商業施設がリニューアルして、入っている書店も立派になった。ぼんやりと哲学や思想のコーナーの背表紙を眺めていたら、飯島洋一という著者の破局論という書物が目に入り、パラパラと捲ってみた。
飯島洋一は、2年前に亡くなった詩人の飯島耕一を父に持つ建築評論家であるという。
ああこれも震災に触れての、悪く言えば機会主義的な書物の一冊かと思いながら眺めていると、ヘルダーリンハイデガーをめぐる記述があって興味を引かれた。ヘルダーリンの病は統合失調症であったと思うが、私も妻も同じ病に苦しんでいる。必ずしもそうした体験的な関心という訳ではないのだが、ヘルダーリンヘーゲルの思想的関係やそこに病がどんな影響を持ったのか、という点には以前から関心があったからだ。
ほんの数ページしか読めなかったのだが、だいたい自分が兼ねてから思っていたのと同じ方向性の論旨のようだった。つまり病のなかで経験されたある対象が、ある意味で思想化されたものとして考えられるような思想の系列があるということだ。ヘーゲルにも死のような体験があったという。おそらくバタイユがコジェーブを媒介に看取したヘーゲルにもまた、その死のような何かがあった。ハイデガーヘルダーリンの詩を読むなかでそのようなものに触れたし、ヘルダーリンの病状が悪化してからの発言には、狂気のニーチェと全く同じようなものがあったようだ。ドゥルーズガタリがスキゾフレニーを語る時に、これらの事実を踏まえていたかは私には分からないが、同じ問題圏に属していたのは確かだろう。
本当に不思議なことかも知れないが、たとえばヘルダーリンの翻訳を少し眺めるだけで、その文体的な姿からさえも、何か異質な電気が流れるような感じを持つし、それは同じ病を持っている人には、おそらく、忖度して貰えるような経験である。