「真理」とは一般的には森羅万象の第一原理である。第一ということは、時間的にも空間的にも、あらゆる序列において「第一」であると等しく、また「唯一」の原理でなくてはならない。第一であり唯一であるという点に既に弁証法的矛盾が存する。つまり量的にも質的にも、一なるものである。「一」なるものへの思考は伝統的には、信仰の空間で扱われた。伝統的とは、信仰的であることを意味する。あらゆる伝統は信仰の問題である。伝統とは世代的継承の対象としての事象であり、世代的継承はそこにおいて継承されるべき時間性、つまり時間の歴史化を前提する。時間が歴史化されるためには、時間の外部性が想定されていなくてはならない。時間の外部性とは、空間の外部性と等しく、一つの信仰的な場である。

 

「歴史」とは時間性の有意味化である。意味とは一定の翻訳であり、接続乃至は断絶である。意味体系は全体として物理的時空の総体を翻訳し、翻訳されるように「呼吸」する。

 

 「生」とは一定の生命的存在の有限な本質である。だが人間の生は、中間的な生である。より低次の生を我々は「物・事」という。より高次の生を、無限や永遠や神に帰してきたのである。

 

「中間的」とは、媒介的であることである。無と存在、ゼロと無限、瞬間と永遠の媒介者として、「ひと」が生きている。

 

歴史的目的論に対しては懐疑的な批判が繰り返されたのが戦後思潮であり、それは目的論が世界的な戦争を一つの極点として、社会における様々な不条理を追認する機能を果たすイデオロギーとして瀰漫してきたという、人類的な「経験」に端を発する風潮であった。

目的や理念、倫理といった「大きな概念」への批判。物語批判。様々な歴史主義への批判。しかし当然ながら、これらの思潮もまた社会に瀰漫するや否や、弊害を露わにした。

結局の所、唯物論的なイデオロギー論はおおまかにいって正しいのであり、資本主義の新しい形態、植民地主義の新しい形態という客観的・物理的・社会的条件のなかで、一定の最適性(つまり最適性であって倫理的正当性ではない)を有していたのが戦後の諸思想であったのだろう。だが、一般に思想の真価の尺度は、イデオロギー的な最適性にあるのではなく、歴史的かつ倫理的な価値基準において、いかに時代的条件に対してそれを押し返す単独的な光芒を放ち得たか、「精神論」としていかに屹立し得たかに帰する事ができるだろう。その最低条件を満たしている思想にして初めて、その階級性や理論的な闘争における積極的な意義を問う意義が示されてくると思うのである。

 

 

中上健次萩原朔太郎西脇順三郎らの文学作品のメモワール。


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自民党の稲田が、自分たちの理念は平和だと発言したらしい。これはカントが理念を彼岸においた、というヘーゲルの批判がそのまま当てはまる事象ですな。理念さえ良ければ何をやってもいいのかという。理念は常にすでに実現されているしこれからも実現されていくものであって、実現されないものは、理念ではない。柄谷行人的なカントの理念論が受け入れられやすい日本の思想風土のなかで、この理念の形骸化が自民党イデオロギーだけでなく、国民生活のなかでも悪しき現実の容認に結実している。日本に必要なのは、相変わらずマルクスでありヘーゲルであり、本質的な一元論の貫通した厳格な二元論に立脚した弁証法なのだと思う。