朱雀の、啼く

文学と、政治と。

しかしアドルノとかマルクーゼとか、マルクス主義サイドのヘーゲル解説には、いつも、隔靴掻痒の感がある。たぶん信仰の問題を正面から捉えていないからだと思う。ヘーゲルはすごくオーソドックスに教会の神学に従属していると感じる。観念論的な「概念から物質へ」という変化が捉えがたいという点もあると思うが、原ー物質的なものを力学的な一種のエネルギーのような存在だと考え、いわば「目に見えないものから感覚可能なものへ」の移行があると想定すれば、理念と指示されたものも納得されやすいのでは。原ー物質、エネルギー、原ー意志のような。原ー意志と考えればこれは主体性の問題になってくる。たぶん量子力学なんかの考察と交差してくる。精神(ロゴス、言)が物質に「なる」のが天地創造。「概念から物質へ」が観念論的であるとよく言われる訳だが、芸術表現だけでなく労働一般が、概念によって物質を操作する行為であり、精神的なものの介在なしには人間労働は成立しない。概念は物質であるが、物質なだけではない。これは脳の科学の問題。このかんの科学が明らかにしたのは、唯物論的物質と観念論的イデーの二項対立そのものが、観念論的対立に過ぎなかったという事実ではあるまいか。脳において観念と物質の区別がどんな生理学的な意義を持ちうるか、こう問わねばなるまい。レーニン主義的な「反映論」と脳科学についての考察があるといいんだけど。

おそらく「物質が先か、精神が先か」もまた、永遠に解決しない問いとして弁証法的な流動の相で眺めておけばいいのだろう。