「平和」とは、一般には国家と国家の間に戦争のない状態を指す。だがこの概念は、勿論、それだけに留まらない豊富な実質を有している。現在までの歴史的形態(生産様式に規定された上部構造としての)における国家にとって本質論的には、戦争はその存在と分かつことはできない本質的契機であるが、同時に国家の理念は、本来的に、その超克を現実の国家に対し命令している。国家とは一つの平和的共同体であるから。もし国家がその内部において平和を放棄するなら、それは内戦状態であり、国家の体をなしていない状態であると指弾せねばならない。平和とは必ずしも国家の「外部から」持ち込まれる理念ではなく、国家そのものの本質が、(社会における階級間の闘争のブルジョワサイドにおける「調停」という意を含みつつ)平和の実現を我々に促している。共同体と共同体の間の平和と、個別的な共同体の内部における平和。その両者は共に実現されるべきであり、かつ、共にしか実現されえない。だが、戦争状態における国家内部は、ナチス時代のドイツにおけるように、非常に治安の統制された平和状態に在ることができるではないか。それはその通りだが、外部への攻撃によって可能になる内部の平和と、外部との協調によって可能になる内部の平和とは、平和aと平和bというように、区別されなくてはならない。ドイツにおけるナチス時代の平和は、内部においても、ユダヤ人、コミュニスト、マイノリティの虐殺という反平和的行為に立脚した仮象に過ぎなかった。この両者は共に「平和」でありながら、矛盾対立する。そこで正当かつ本質的な平和概念が探求されねばならず、我々は何が「真の平和」なのか、その概念を明確化し、誤った平和の仮象とは「闘争」しなくてはならない訳である。