松本たき子「ママ友は自衛官」(民主文学2015年3月号)を読む

 

 一、

 

 この2015年8月現在、まさに安倍政権は、「戦争立法」と呼ぶべき安全保障関連法案を国会で強引に成立させようと企図している。憲法に明記された日本の平和にとって最大の危機であるこの情勢下、一人の母親(ママ)が、日本共産党への入党を決意するに至る内面的なプロセスを描いたのが本作である。

 作品の基本的な要素として、まず「時間」と「空間」を取り上げるなら、この作品は自公政権戦争法案成立へ向けた策動が国民のあいだに懸念や不安を呼び起こしているある時期(作中では年代は明示されていないが、「もう11月に入ったのだから」という記述から2014年11月と推測される)であり、「空間」は「横須賀市」である。

 冒頭、「いつもの朝」という記述があり、p28「目を閉じて」までは基本的に1日のあいだの出来事と、過去の主人公とその周辺の説明であり、p28「今朝は」からは、冒頭の1日からは余り時間の離れていないある1日、さらに、最後として「その週の週末」という三日間の出来事を中心に作品は叙述されている。

 空間については、主な出来事の発生する場所として、また人物たちの行動が展開される主な場所として、「保育園」が第一義的な重要性を有する空間であると言うことができる。さらに隣接する空間として、「主人公の自宅」「駆け込んだ通勤電車」が作中の舞台として設けられている。

 次に人物を整理すると、主人公は「憲子」である。作品の話者(語り手)は、主に憲子の行動と内面性に焦点をあてて、語りを進行させることで作品が成立している。憲子には和(なごみ)という三歳(p25「三歳になった和は…」)の娘がおり、和と密接な関係を持つ(p25「ゼロ歳児クラスから一緒で、育ち合って三年目…」など)女の子に、愛結菜(あゆな)が登場する。そして愛結菜の母親として、題名である「自衛官」の「ママ友」、「愛結菜ちゃんのママ」が叙述される。作品は話者が主にこの四名の女性の関係した行動を、憲子の視点と内面の動きを軸に叙述するという形式で構成されている。

 

 

 

 二、

 

 作品は憲子の「視点」と「内面性」を軸にした話者の語りであると先に述べたが、「視点」に注目すると、話者の視点と憲子の視点には一応の区別が認められる。話者は憲子ではなく、作中の全て、人物の内面の動きまでを把握しつつ生起するあらゆる出来事を「過去に起こった出来事」として把握している何者かである。

 また、「内面性」とは、「話者が人物の意識(感情や思考など)として叙述するもの」を指示するとさしあたりは言えるだろう。「内面性」はこの場合、あくまでも作品の話者が叙述する限りのそれであり、直接に人物が「告白」する自己の(それ自体客観的に真実であるとはその限りでは保証されない)意識とは形式上区別されざるを得ない点には注意が必要かもしれない。

 こうした区別があまり明瞭に表現されていないことは、作品に曖昧な、若しくは散漫な印象を与えているきらいがある。

 憲子の意識が、客観的世界のなかの一つの意識としての反省により十分に濾過されていないため、話者と憲子の間に「甘え」や「馴れ合い」にも似た癒着が存在するのではないか。ただ、それ自体が実は、作品の潜在的主題である「成長と実践」と連関する曖昧さの印象を作品に与えているとも言えるかもしれない。

 

 作品の「主題」とはなんだろうか。主題論については様々な学説が存在するが、ここでは一般的に、「作品の全てがその実現のために構成されるべき所の、なんらかの内容」として考えたい。

 主題を顕在的(外的・形式的・一般的)主題と潜在的主題(内的・内容的・個別的)に区別する。

 作品の顕在的主題が「一人の母親の日本共産党への入党の決意」であることは比較的明瞭である。作品の結末は、それまでの主人公・憲子の内面的葛藤と出来事とのプロセスの「答え」としての日本共産党への入党の決意を暗示している。だが、この形式的な主題は、それだけで「この作品そのもの」の「核心」をなしている訳ではない。というのも、作品の内部には「日本共産党」がどういう性格の政党であり、なぜそれが「答え」であるかが明示されていないから、答えになりうるならば、ほかの団体への参加であっても構わない構成になっている。形式的な主題と核心の不一致が、この作品の特徴の一つである。ここで「核心」と呼ぶものは、作品が有する存在意義の中心、作品の本質である。

 

 換言するなら、「一人の母親の入党への決意」そのものが作品のなかで真に問われているのではない。そこに至る作品固有の表現が、顕在的主題と連関しつつ、別の事柄を読者に訴えている。では、その潜在的主題、内的主題は何で、どのように表現されているだろうか。

 

 作品全体が憲子の視点と内面性を基調として構成されている事、その意識上の動きと外的な出来事とが絶えず結び合わされており、重要な場面における憲子の意識にアクセントが置かれ、結末もまた憲子の意識に関する叙述である事から、内的主題は憲子の意識上の事柄になんらかの形で関係すると考えられる。

 だが、憲子の意識そのものが主題であるとは言えない。作品全体の構成が、憲子の意識の叙述を通じて表現しているものがこの作品における主題であろう。作品の主題にとって、憲子の意識もまた、表現手段の、基調的ながらやはり一要素であると把握すべきである。

 そこで、潜在的主題を明るみに出すためには、憲子の内面性の叙述がどんな内容を有しているかを整理する必要がある。

 

 憲子の内面性をめぐる叙述において特徴的なことは、「違和感」とそこからくる煩悶にも似た自問自答である。(p23「自分でも驚くほど違和感を持った」)。違和感は一般に「不快」であり、人はつねにその解消を求める。

 「平和運動をしている両親の元に生まれた」憲子には、自衛官である愛結菜ちゃんのママとの遭遇に、世界観の衝突とも言うべき違和感を拭えない。娘同士が強い絆で結ばれている以上、だが、この遭遇を無視して、愛結菜ちゃんのママから遠ざかることもできない。

 

 「ママ友」という、少なくともこの場合の、挨拶や世間話をやりとりする水準の希薄な関係性のなかでは、憲子は自分の違和感を解消することができず、終わりなき自問自答の円環のなかを堂々巡りするだけである。

 政治的信条や世界観は二人にとって生活に直結する、内面的であると同時に外面的なものである。憲子は平和運動をする両親のもとに育って、九条の会に参加するものとして。愛結菜ちゃんのママは自衛官として。

 そこに踏み込んだ意思疎通を成立させる、その実践(行動)によってしか違和感を解決できないという予感が憲子の内面には存在する。

 

 一言で言って、憲子は叙述されるように「かんたんに白黒つけられない」「複雑」な意識を抱えている。

 冒頭のブーツの描写や直接の愛結菜ちゃんのママの風貌や振る舞いの描写から、憲子は彼女に一種の羨望や、自分にはない能力や美点を持っている他者への好意的な評価を持っていることが認められる。

 

 また、憲子自身のなかに自己の人格的な未熟さへの自覚と反省があり、それは「そんな自分に嫌悪を覚えた」「自分が許せなかった」という叙述から見とることができる。憲子は母親とはいえまだ若く、人格的な成熟の途上にある。内的葛藤の質や作品の叙述全体の曖昧な雰囲気が、それを印象付けている。

 

 母ないし両親の生き方、そのなかで育まれた自己の価値観や感情を肯定したいという思いがある。

 

 他者の生活を改善したいという意思の存在が匂わされてはいるが、それについては直接に叙述されていない。おそらく、そのような「善意」に対し内面的に批判的であろう、あるいは慎重であろうという憲子の意識の存在を感じさせる。だが、直接には叙述されていないが、憲子の欲求が、愛結菜ちゃんのママに自衛官をやめてほしい、平和に暮らしてほしいというベクトルと、他人の生活にそこまで介入すべきでないし、関係を続けていくためにはそのような働きかけをすべきではないというベクトルに終始引き裂かれていることは容易に理解できる。その直接には言及されてはいない、相反する意識が、憲子の葛藤の一段深い水準に存在する。愛結菜ちゃんの「大荒れ」という出来事は、この葛藤をより強めるものとして作用している。

 

 憲子には、愛結菜ちゃんのママへの「友愛」の情が存在する。平和運動をしている両親のもとで成長してきたそれまでの憲子の世界観のなかでは見えていなかった自衛官の生きた姿、その生活に、自己と同じ人間という共感を抱かせ、世界観をより深化させ、積極的な実践へと歩みを進ませる契機となっている。

 

 

 憲子の内面性の叙述は、愛結菜ちゃんのママに対する複雑な思い、葛藤を表現している。それを憲子の内面だけの問題にせず、憲子に行動を起こさせる契機となるのが、作品のなかで発生する中心的な事件である、愛結菜ちゃんの保育園での「大荒れ」である。

 ここから憲子の愛結菜ちゃんのママへの思いは強まり、関係を深めて、自己の葛藤を乗り越えるためには、共産党への入党が必要であると決意するに至るのである。

 

 内的葛藤の乗り越えとは人格的成長のプロセスであり、また、憲子には、現在の自分では自衛官である愛結菜ちゃんのママに対してどう振る舞えばいいのかが分からず、適切なアプローチを行えないという不安がある。 

 

 「憲子には本当は答えが見えていた」という叙述から、共産党への入党という一つの萌芽的な「実践」が、この違和感や曖昧な自己の抱える葛藤への答えであることが、そして作品の収斂する答えの一端でもあることを見とることができる。 

 つまるところ、憲子の内面の葛藤(「ああでもない、こうでもないと悩んでいるだけの自分」)は実践に答えを予期している。だが、なぜそれが答えたりうるかを了解させうる叙述は、明示的にも暗示的にも、作品の内部には見出されない。

 

 成長とは人格的な完成へのプロセスであり、実践とは内的なものと外部世界とを調和させることであるならば、実は成長と実践とは分かち難く結びついている。人格性は、本質的には、内面的にのみ完成されることはできず、それ自体が外的世界との調和によってのみ完成されうるから、人格的完成への努力は内向きにかつ同時に外向きに行われてこそ健全であるからである。

 生活体験から実践へ。成長はつねに、内的世界と外的世界の一致を志向する。

 

 その意味で、作品は、「一人の母親の共産党への入党の決意」を顕在的主題として、その向こうに「成長と実践」という潜在的主題を有しているといえる。そしてこの主題の根拠となる理念は、「愛」であると言わねばならない。

 

 

 三、

 

 作品の理念は、愛と実践にある。実践と理念とは区別され対立するとさえ考えられるが、実践と理念の一致ということそのものが、作品の主題を媒介として、作品の理念をなしている。実践なき理念はまだ十分に理念ではなく、実践なき愛は空疎である。