朱雀の、啼く

文学と、政治と。

安倍政権、国家と経済発展

およそ国家の理念=目的は、自由である。だが、我々個人の自由か、各人の身体的、精神的な特徴と家族など社会環境のなかで成り立つ自由であるのと同じく、国家の自由も諸外国からの制約や国際条約、国民が歩んできた歴史、国民相互の対話や戦いといった条件の下に成り立つ自由である。科学的社会主義マルクス主義)は一般に、経済システムから政治を説明するのが主流だが、それは国家の自由という本質を見誤らせるリスクを有している点には注意が必要である。我々が本質的に自由でありながら、人生の大部分を、資本制労働に費やすのと同じく、国家の自由も、何でも好きなようにできる自由(恣意、放恣)ではない。我々には一社会の内部で一般的な人生を送る道を選ばずに、無人島に小屋を建てて一人で生活するのは自由であるように(ただし土地の所有権と無縁ではない)国家も原理的には経済的な利害を最優先しないことは可能だが、我々の99%が経済的な義務と利益の中で生活するように、国家も基本的に全て経済の法則に従う。ただし例外的な国家や、例外的な時期は常に存在するし、寧ろ我々にとって常に問題なのは、資本主義の法則さえ乗り越える自由の可能性であり、その危険である。ファシズムと世界大戦は、資本制生産様式の理論からだけでは説明できず、帝国主義論が必要だった。帝国主義論によっても完全な解明には至っていないからこそ、世界史は常に、破局的な例外の自由を留保しているのである。

国家と経済の関係とはそのようなものであり、我々の国家はあらゆる夢想的な自己意識に反して、一定の様式による生産活動の反復の上に建って機能している。国家は経済発展以外の様々な目的を持つ事ができるし、現に様々な分野の政策として活動しているが、結局の所、自己(自国政府)の不利になる事は原則としてしない。政府の支持基盤に不利益な政策を行うならば、政府は瓦解する。政府の支持基盤のヘゲモニーを握るのは、経済的なエリート層だからである。