民主文学6月号、東作品の雑感

「民主文学」6月号、東峰夫さんの「ダチョウは駄鳥⁉︎ー九段論法による神の存在証明」を読む。芥川賞作家・東氏の民主文学加入は沖縄各紙が報じ、ネットニュースでも流れました。確かYahoo!ニュースも取りげていた。乙部氏によるインタビューを読むと、若い頃には中上健次がいた「文芸首都」などにも出現していたらしい。そもそも、こうしたネットのメーリスや合評では、作者の気分を害するような事を言いにくいものだが、ご本人がおそらくこのメーリスにはいない事を前提に(?)小説への雑感。
まず、タイトルから一種の諧謔味を感じさせ、ユーモア小説の類である事を予期させる。「九段論法」なんて聞いたことがないし、小説に「神の存在証明」と出てきたら、それは文字通りの中世期に神学者が思考した「存在証明」ではなく、それを意識して笑いのめすためのギャグだと受け取るのが読書人に一般的な作法であるべきであって、いかに大川隆法麻原彰晃を連想させる内容が本作の大部分を占めていても、それを真に受けるものではない。実際私は読みながら「幸福の科学の人なのかな」と不安になったし、その懸念は払拭できていないのだが、論理的にはそんなに特別な内容ではない。ということは、自己の思考に自信さえあれば、本来、麻原彰晃大川隆法も何ら恐るるに足らない。寧ろ「普通の人」の生活中心の思想の方が恐るべきである。黙ってジェノザイドも原爆投下も引き起こすのが、「普通の人」の生活中心の受動的思考であるからだ。私は東さんの作品を読んだことはないが、本作の調子は中上健次でいうなら、「奇蹟」におけるアル中のトモノオジの幻想=現実の幽冥境である。これ自体作者は自覚して自嘲的にユーモア小説に仕立てている。作中、編集者が現実と想像を二項対立的に捉えて現実をかけと強要するが、ダチョウに仮託された話者はこれを批判して「ユング」や「夢」を持ち出す。これは弁証法でもあるし、シュルレアリズムでもあるし、作者は当然シュルレアリズムによる夢の記述を前提にしている。そもそもユングシュルレアリスムは歴史的に深く関係がある。「太陽神」などと出てくるが、ユングも宗教や神話に造詣が深く、精神分析や心理学の理論をフロイト以上に宗教や芸術と結びつけたものである。こういう壮大なスケールの世界観を日々深めている人がガードマンやってるというその落差自体が笑いの対象になる。「ダチョウ」は「駝鳥」であり、「駄鳥」ではないのだが、駝鳥を駄鳥と誤変換するところに資本主義社会の倒錯性がある、というふうに作者は考えているのではなかろうか。(編集者とのやりとりは、「現実主義」「私小説」を書けという世間への皮肉かも知れない笑)。作者にとっては小説表現は日常性=現実性という支配的な神話への批判である。