朱雀の、啼く

文学と、政治と。

民主文学メーリングリストに投稿した「文学論」1〜6

ここしばらく余り小説を読まなくなったのは何故かな、と、よく考えます。読みたいんですけどね。世の中には自分の知らない素晴らしい小説作品がまだ沢山あるのはよく分かっている。しかし、なかなか読めない。一つには、多忙のため、小説を読んでいる余裕(だが、小説を余裕によって読むなんて19世紀的な有閑階級みたい、その残党が、プルーストみたいな長編を持ち上げたに違いない、、)がない。また、それに関連して、精神的な余裕もない。また、一つには、病気のため集中力が続かない。これは長い治療の甲斐あって最近は改善。また、自分が作家や芸術に若い頃ほど神話的表象を抱いて崇拝する、という事がなくなった事情もあろうと思いますね。神話作用、というとレヴィストロースだったかな、ロラン・バルトですか。作家は神の如き存在であり、作品は聖典であり、、というような芸術宗教みたいな流れがあり、私も十代の頃にランボーマラルメの詩にやられて以来、結構そういう潮流の感化は受けましたが、私見では、プロレタリア文学はこういう芸術に対して、否を突きつけた。現実社会をぶつけた訳ですよね。まあそんなこんなで、まだまだ読めていない名作が沢山あるので、読まなきゃなぁ、と思う昼休みでした。ヘミングウェイとか。

 

葉山嘉樹の高名な作品に「淫売婦」がありますよね。私の記憶では、戦前のリアリズム小説の課題の一つは「いかに勧善懲悪の江戸期までの物語を小説が乗り越えるか」という点にあった筈で、その問題意識は基本的に社会主義的な文学に引き継がれた、と。科学的社会主義マルクス主義唯物論的な世界観の革新性の一つは、確かにこの点、即ち、勧善懲悪的な、道徳的な「善悪」の欺瞞性、支配階級のイデオロギーの道具という性格への批判にあったと思います。葉山の「淫売婦」はこういう世界観を寓意化した物でもあると思います。しかし、倫理や道徳を等閑に付すだけでいい筈もない。葉山の優れた批評性は、主人公の内面の「正義」への呵責のない自己批判にあると思います。正義の観念や心情は人を陶酔させる麻薬たりうる。何故かふと思い出しました。多分、或る家族の崩壊の主人公に感じられるある種の清々しさは、既成の善や正義のステレオタイプに依存していないからではないかな、と。

 

正義、善の既成的な意味への批判というのは、思想的にはけして自然主義ー社会的なリアリズムが先鞭をつけた訳ではなく、たとえばマルクスが師と仰いだヘーゲルは若い頃に実定性(実証性)への批判を行った。時代はゲーテに代表されるようなロマン主義文学の花盛りです。ヘーゲルはカントの批判を含みつつ、既成の倫理的理念や法は心情に基づく行為が論理的に規範化された物であって、肝心なのは心情の方だという立場だった。その意味ではロマン主義的な心情重視の思想的圏域のなかにあった訳ですが、これはやはり芸術全般の意味に関して言える事だと思います。創作=表現から善や正義が固定化されるのであって、逆ではないですね。竹内さんの「瓦解」では家族が瓦解する様が描かれますが、それが悪しき読後感を余り与えないのは、その批判はヘーゲルの実定性批判や葉山の正義感への批判とも通じるような、家族の形式性への批判を含んでいるからではないですか。と一考する昼休み。

 

さて、シールズのあとを引き継ぐかのように現れた「未来のための公共」。私は学生の頃から何度となく国会には行っているし、傍聴もするし、基本的には市民運動の盛り上がりには期待する立場です。自身、市民団体の事務局をやっています。しかし、シールズに特に期待はなく、そのマーケティング的な戦略性は評価しつつも、これでは運動は目的を達成する程の盛り上がりにはなれないと感じてきました。未来公共も支持はしますが、余り単体としては期待をしていません。若い人々はどんどん言いたい放題をし、責任は歳をとってから取ればいいと思う。責任取る人が大人にもいないのが日本社会なのだから、若い労働者や学生は萎縮すべきではない。確かに時代は新鮮な雰囲気が多少ありますが、戦争法を廃止して野党と市民の政権を立てるには、余りに軽微な変化でしかない。私自身、本腰を入れて、模索を続けねばなりません。文学と社会運動、政治運動が上手く組み合わされば、非常な化学変化が起こるのでは。

 

「民主文学」6月号、東峰夫さんの「ダチョウは駄鳥⁉︎ー九段論法による神の存在証明」を読む。芥川賞作家・東氏の民主文学加入は沖縄各紙が報じ、ネットニュースでも流れました。確かYahoo!ニュースも取りげていた。乙部氏によるインタビューを読むと、若い頃には中上健次がいた「文芸首都」などにも出現していたらしい。そもそも、こうしたネットのメーリスや合評では、作者の気分を害するような事を言いにくいものだが、ご本人がおそらくこのメーリスにはいない事を前提に(?)小説への雑感。

まず、タイトルから一種の諧謔味を感じさせ、ユーモア小説の類である事を予期させる。「九段論法」なんて聞いたことがないし、小説に「神の存在証明」と出てきたら、それは文字通りの中世期に神学者が思考した「存在証明」ではなく、それを意識して笑いのめすためのギャグだと受け取るのが読書人に一般的な作法であるべきであって、いかに大川隆法麻原彰晃を連想させる内容が本作の大部分を占めていても、それを真に受けるものではない。実際私は読みながら「幸福の科学の人なのかな」と不安になったし、その懸念は払拭できていないのだが、論理的にはそんなに特別な内容ではない。ということは、自己の思考に自信さえあれば、本来、麻原彰晃大川隆法も何ら恐るるに足らない。寧ろ「普通の人」の生活中心の思想の方が恐るべきである。黙ってジェノザイドも原爆投下も引き起こすのが、「普通の人」の生活中心の受動的思考であるからだ。私は東さんの作品を読んだことはないが、本作の調子は中上健次でいうなら、「奇蹟」におけるアル中のトモノオジの幻想=現実の幽冥境である。これ自体作者は自覚して自嘲的にユーモア小説に仕立てている。作中、編集者が現実と想像を二項対立的に捉えて現実をかけと強要するが、ダチョウに仮託された話者はこれを批判して「ユング」や「夢」を持ち出す。これは弁証法でもあるし、シュルレアリズムでもあるし、作者は当然シュルレアリズムによる夢の記述を前提にしている。そもそもユングシュルレアリスムは歴史的に深く関係がある。「太陽神」などと出てくるが、ユングも宗教や神話に造詣が深く、精神分析や心理学の理論をフロイト以上に宗教や芸術と結びつけたものである。こういう壮大なスケールの世界観を日々深めている人がガードマンやってるというその落差自体が笑いの対象になる。「ダチョウ」は「駝鳥」であり、「駄鳥」ではないのだが、駝鳥を駄鳥と誤変換するところに資本主義社会の倒錯性がある、というふうに作者は考えているのではなかろうか。(編集者とのやりとりは、「現実主義」「私小説」を書けという世間への皮肉かも知れない笑)。作者にとっては小説表現は日常性=現実性という支配的な神話への批判である。
 
職場が幕張のイオンモールの近くなので時々寄ります。書店を覗くと、岩波文庫の棚に、レーニン哲学ノートやらトロツキー永続革命論やら、はたまたフッサール現象学やら。確かレーニンは、現象学に対してはブルジョワ哲学の変種のような扱いだったのではないか、と記憶しますが、レーニンの百年前の意見に従う必要は全くない訳で、私もデリダなどを通してしかフッサールを知らないので、この機会に、、などと逡巡することこ一時間、結局何も買わずにカツ丼食って帰りました。
文学と革命というとトロツキーみたいですが、狭義のプロパガンダという以上に、革命と文学は内的に一致する要素を持つ。こういうベクトルは、スターリンにより或いは廃されたかも知れませんが、西欧で寧ろ戦後発展して多様な文学理論の根拠になったのだと思いますね。フーコーにせよデリダにせよ、マルクス主義哲学者のアルチュセールの指導を受けた。アルチュセールフランス共産党からたびたび自己批判を迫られましたが、日本ても志位さんは著作でアルチュセール派の政治学者を批判している。八十年代ポストモダニズム以降の日本の思想的、文化的現在を語る上でも、この辺りのフランス思想の問題意識は関与してくると思う。当然、文学なき文化としての現代日本の大衆的消費社会的状況を問うことは、文学において、何がいかに書かれるべきか、を規定する要素であるだろう。