やっと風邪が快方に向かいつつあるが、まだ完治ではない。「物語」とは何か、というのは、高専生時代に蓮実重彦中上健次を読んでいた私にはずっと意識の片隅にあるものだ。多分、蓮実重彦の物語概念はフランスの説話論を下敷きにした「独創的」なものなので現代フランスの文学思想を参照する労を厭いさえしなければ理解に困難なものではない。だが、ものぐさなので放置している。最近、ふと吉本隆明共同幻想論を書かねばならなかったのは、政治家と芸術家の社会存在論的な交点においてその存在を客観視ー反省する必要があったのだろうと思い当たった。戦後、アドルノのテーゼ(アウシュビッツ以後の詩人の野蛮性)にみられるがごとき芸術家の存在論が厳しく問われた、それは表面的には芸術家の社会参加ーアンガジュマンの形式を取ったが、これをマルクス主義よりは民俗学的な次元で扱う必要が吉本隆明にはあった。勿論そのベクトルは、学生運動の指導者から神話学の研究に向かったレヴィストロースと軌を一にするものだ。だが多分、共同幻想とは共同体と芸術家=政治家との関係において問われるべきまさに「物語=イデオロギー」の問題であったという視角が、その前も後も広く了解されたのか否かは知らない。